農と暮らしの技(3) 家畜のいるくらし(その四)

 前職の鯉淵学園にはかつて、敷地内に20棟ほどの職員宿舎があった。満蒙開拓青少年義勇軍幹部訓練所の職員宿舎として、昭和13年 (1938) 築18坪平屋建て。私は教職員時代の1977年から1998年まで、当初は一人で、5年目から18年間は家族とともにこの老朽宿舎に住んだ。玄関頭上に「幹訓舎宅」の陶製銘板が貼ってあり、柱は傾いてあちこち隙間だらけ、トイレはボットン、風呂は五右衛門、床は軋み廊下は傾いていたが、敷地は広く150坪くらいあった。

 庭に小さな菜園を作り、さらに鶏を飼おうと考えた。鶏がいるくらしを再現し、娘たちに動物と触れ合う機会を作ってやりたかったのだ。妻も幼少期の生家に鶏がいたとのことで賛成してくれた。最初に飼ったのが「東天紅」という長鳴鶏 (声良鶏とも) 。雄は尾羽がたれて地面を長く引きずり、とてもきれいで何よりその鳴き声が立派だった。雌は地味で小さかったが、時々卵を産してくれた。2羽は日中放し飼いだった。

 その後は、真っ黒な金八鶏のつがい、矮鶏 (チャボ) のつがい、白黒斑のプリマスロック、烏骨鶏 (ウコッケイ) なども加わって鶏小屋はどんどん賑やかになった。有精卵をチャボに抱かせて孵化させたり、職場で購入した「孵卵器」で孵 (かえ) したりした。学生や青年海外協力隊研修生にも孵化を見せてやりたかったのだ。アヒルの有精卵が手に入ったときも孵卵器で孵し、わが家の鶏小屋に同居させ、いつの間にか鶏・アヒル合わせて20羽近い大所帯になっていた。

 雄鶏が何羽かいたので、夜中の3時くらいから次々とコケコッコーと鳴く。家族は慣れて誰も目を覚まさないが、水田越しに100mほど離れた女子寮の学生から苦情がきた。「先生、夜中の鶏の声なんとかしてください。気になって寝られません」寮長には謝ったが、雄鶏を処分もできずそのままにしてしまったっけ。

 アヒルの雛は、練習させないと泳げないことをその時知った。日中、たらいに水を張って泳ぎを練習させていたら、雛が熱中症でダウンしたことがあった。娘と日陰でマッサージしたりして半分ほどを回復させたが、数羽を死なせてしまった。この間、家族とともにさまざまな経験ができて幸せだった。

 同じころ、学園敷地内に迷い込んだ雌チャボを1羽学生が捕まえて持ってきた。私が鶏を飼っていたので世話してくれると考えたのだろう。妻の母親が隣市に一人住まいしていたので話し相手のペットとしてどうかと、小さな鶏小屋を作って持っていったら喜んでくれた。この雌チャボ、なんとその後17年も生きた。15年目まで年に数個だが卵も産んだ。義母は100歳の長寿を全うしたのだが、老いの一人ぐらしを17年間も慰めてくれた大事な相棒だったのだ。