農と暮らしの技(3) 家畜のいるくらし(その二)

 昭和30~40年代(1955~1970)、生家にはいつも家畜がいた。私が物心つき始めたころには黒毛の牝牛と鶏が20羽くらいいたし、雌山羊あるいは雌豚も飼っていた。一時期はつがいの兎がいて、池にはいつも鯉がいた。

 それぞれの家畜飼育の時期は今となっては記憶があいまいだが、家畜がいることがごく当たり前のくらしだった。

 牛小屋の後には堆肥の山があった。敷料の刈草にまぶされた牛糞を定期的に出して積む堆肥からもうもうと湯気が上がる光景が目の奥に残っている。山羊小屋、豚小屋、鶏小屋から出した物もこの堆肥山に足されたのだと思う。この堆肥は3月末のころ、凍みて固くなった雪の上を橇(そり)で田んぼに運んだのだが、そのことはまた別に述べることにする。

 鶏がいたからいつも卵を食べることができた。親が忙しいときは自分で卵焼きを作って弁当に入れた。節句や盆暮れには父親が “ひね鶏” を絞めて肉にしてくれた。肉料理を食べられる年に数回の機会がとても楽しみで、鶏の解体はいつも間近に見ていたものだ。骨からは出汁も取り、その後のわずかに肉片がついた骨をもらってしゃぶれるのも嬉しかった。

 卵は週に一度、農協の職員が集会所に買いに来て、持っていくと1個10円になった。毎週数十個を売っていたのではないかと思う。これは兄の仕事だったが、時には私がその代役を務めたことがある。その頃は小遣いを手にしたことがなかったからお金の価値がよく分からず、数百円の金額は子どもにはとても大金のように思えた。

 牛、山羊、豚はみな雌で、年に一度、種雄を飼っている家に頼んで種付けしてもらい、生まれた子牛、子山羊、子豚は売って貴重な現金収入になった。

 その頃の農村では “牛乳を飲む” ことなどほとんどなかったと思う。わが家はヤギ乳が飲めた。お産した後のほんの一時だけで味も覚えていないが、卵、鶏肉、兎肉とともに食卓に上れば “くらしの満足” そのものになったように思う。幸せのタネは “自給” にあったのだ。

 家畜の世話は祖母と子どもも関わった。祖母が山羊に餌をやりながらぼそぼそと、いつも何か語りかけていた光景が忘れられない。私はいつのころからか鶏の世話役になり、中学卒業まで担った。餌をやり、卵をとり出し、敷料を足すなどの作業だった。この経験から、後に鯉淵学園の職員宿舎の庭で十数羽を飼って卵の自給をしたし、その後学園農場で「有機圃場の鶏飼育」につながった。

 “家畜のいるくらし” の想い出は、いつもとても胸を温かくする。さまざまな光景が色濃く記憶に残っていて、家族と家畜は切り離しては考えられない。

 

昭和30年代の生家の間取り。飲用水は川から引いていた。台所、トイレ、風呂、玄関などはその後 何度も改修された。

2階の間取り。冬季は鶏を二階で世話した。寝間以外はくらしのためのさまざまな用途に供されていた。葉タバコ栽培の前は養蚕もしていたので蚕棚もあった。