徒然に(12) 春の野菜考

 また春の端境期がやってきた。4月から5月半ばくらいまで、穫れる野菜の種類が激減する。ところが、スーパーマーケットには種類豊富な野菜が所狭しと並んでいる。これは北から南からさまざまな野菜が届き、温室育ちのナスやキュウリ、トマトなども流通しているからだ。今や「旬は?」などと問いかけてもナンセンスか。「JA」の農産物直売所でさえ、お客に忖度して南や北の野菜を仕入れて並べている。自分で栽培しないと野菜の季節はきっと分からない。

 わが家の台所も種類が少なくなってきた。畑から直送できるのは、もうすぐ終いになるニンジンと一本ネギ、甘くておいしい薹立ち(とうだち)菜「カキ菜」だけになった。保存してあったタマネギも台所にある数個のみで、芽が伸びてフニャフニャ。秋ジャガもあと数個で終わり。貯蔵庫にサツマイモとサトイモ、カボチャが少し残っているので、これは4月末くらいまでは食べられる。冬の間中穫れ続けたキャベツ、ブロッコリー、ダイコンが先週で無くなってしまったのが寂しい。

坊主知らず(不知坊主)ネギ:毎年1本が8本に増えるネギで株分けして繁殖させる。坊主(花径)が立ち上がらないので、4~5月に食べられる。

 私が思うに、もっとも美味しい野菜は春の薹立ち菜(菜花)ではなかろうか。特に美味いと思うのはハクサイ菜花とコマツナ菜花だ。甘味と旨味がその花径に凝縮している。これは、体中に蓄えた栄養を花に、そして種子に送り込もうとしている菜類の必死の営みなのだ。それを横取りしている人間の業を思い出させるのが春なのかもしれない。

 この野菜不足の期間は、同時に山菜に恵まれる時季でもある。その苦みや酸味、強い風味は豊富な抗酸化物質の味わいである。子どものころは、なぜこんな苦いものを大人は食べたがるのだろうと不思議だったが、歳経て大人の身体が欲求するからだと分かった。冬の間の栄養不足で錆びついた身体が、若返りを求めてビタミンと抗酸化物質を欲しがったのだ。

 だがそれは昔の話、今は年中新鮮な野菜やくだものを食べているから、春の山菜を身体が求めるようなことは、昔ほどではなさそうだ。季節の風物として食卓に載せることはあっても、健康な人にとっては、それは脳と目が欲しがるだけだろう。旬の野菜の美味しさも、季節と無関係に食べている現代人には、実はそれほど切実な味わいではないのかもしれない。

 先月から苗床を満たしつつある夏野菜の苗の世話で忙しい。鉢の水加減、温度の調節に日に何度も苗床を覗くが、苗は人の足音(振動)にも反応するという。疎かにできない。もうじきトマトを植えられそうだ。

 この時季、私の身体は別な悲鳴を上げる。若い時分に傷めた腰がきつく疼くのだ。腰痛症は決まってこの季節に酷くなる。冬野菜の片付けと春夏野菜の準備に気が急くが、「どうだ、今日の具合は?」と身体と相談しながらになる。この腰とはもう40年以上の付き合いだが、動かし方の頃合いは今も難しい。