徒然に(13) 新たな出会い

 耳の故障が進み、人との会話がますます困難になってきたので、別のコミュニケーション方法が必要になった。内耳のセンサー崩壊が進めば、補聴器という補助手段には限界があると分かった。音声をスマホの画面に文字で表示するアプリも試したが、スマホ画面ばかり見ていると話し相手の顔を見られない。これでは気持ちを込めた会話にならない。正確な音声変換にも限界があってもどかしかった。だから、もうその時が来たんだと思った。

 手話を習おうと、ボランティアグループの手話教室を見学させてもらった。挨拶もそこそこに、いきなり手話ゲームに誘い込まれて右往左往したが、その体験は楽しかった。15人ほどの集まりだったが、みな温かく素敵な人々で、迷うことなく、この会に参加させてもらうことに決めた。週1回、夜2時間ほどの「手話を学ぶ会」に通うことにしたのだ。

 耳に骨伝導式の補聴器を着けた小学生とその家族、聾者の壮年男性二人、ほかは健聴者で私くらいの老齢者は男性一人。やや女性が多くて、リードするのも女性たちだった。講師役は経験豊富なメンバーが交代で務めるらしく、皆でワイワイ意見をぶつけながら陽気に楽しく学ぶ集まりだった。これはいい。肩ひじ張らずに参加できそうだ。会の冒頭で「聾者のスポーツ大会が近々あって手伝い参加者を求めている」と紹介された。手話を学ぶ目的の一つが、社会貢献なのだ。

 この世に障害者は多い。障害のあり方も様々で、見てすぐ分かる障害ばかりではない。難聴者や聾者は一見では他者には分からない。精神障害者、心の病、難病を抱えた人など、健常者にとっては普段意識の外にある人たちのことを忘れたくない。少数者、社会的弱者の存在を身近に思えるようになったのは、難聴という身体の異変のおかげである。

 若いときから腰痛で苦労している。畑仕事が混む時期は腰サポーターを使うことがある。50代くらいから膝の不調があり、60代以降は両ひざにサポーターが欠かせない。そこに難聴が加わり、人との会話に不便をかこつことになった。人に会うことをためらうようになり、長話を避けたくなる。ちょっと寂しいのは、好きなテレビ映画を楽しめなくなったこと。字幕付きならセリフを理解できるが、物語に没頭できない。聞きたい講演会も足が遠のく。

 でも、落胆してはいない。嘆く必要もない。新しい世界を見つければいいのだ。新たなコミュニケーション・ツールを身に付けて、新たな出会いを求めよう。今までとは違う世界にチャレンジし、楽しみ、新たな彩りを見つけたい。

 人生100年だという。まだもう少し、いやまだ結構長い時間がある。