農と暮らしの技(3) 家畜のいるくらし(その一)

 1960年代以降、日本の農家のくらしはずいぶん大きく変わった。その一つが家畜のことである。かつての日本の農村では、なにがしかの家畜を飼う家が多かった。馬、牛、山羊、豚、鶏などだ。それぞれの飼育数は、家畜種、農家の経済や家族数、耕作する田畑の規模などによって異なった。馬だけ、牛だけの農家があれば、複数の家畜種を飼う農家もあった。貧しくて飼えない家もあった。

 作物栽培のかたわら少数の家畜を飼うのは、その時代の理由があった。

 理由の一は、作物栽培の余りものを無駄にしないで餌に使い、乳や卵、鶏肉などの自給食料を得ること。動物タンパクを自給することは農山村のくらしにとってとても有益だった。肥育した豚や卵、生まれた子牛などは売りに出すと貴重な現金収入になった。家畜の世話は老人や子どもも関わって、飼育技術は世代を超えて受け継がれた。

 二つ目は、堆肥が必要だったからだ。刈草や稲ワラなど植物だけでも堆肥はできるが、家畜の糞尿は窒素源としてとても効果的で、田畑を肥やす土づくりにおおいに役立ったのだ。家畜小屋に刈草、稲ワラ、モミガラを敷いて糞尿をまぶす。定期的に小屋から出して堆積し、切り返ししながら堆肥を作った。例えば牛1頭と鶏20羽がいれば、当時の平均耕作面積1ha余の農家にとって相応の堆肥をまかなえたのだ。

 三つ目の理由は、役畜(えきちく)としての役割だ。農家に耕耘機(あるいは耕運機)が普及し始めたのは1965年ころから。それまでは馬や牛が田んぼを起こし、代掻きを担い、重い荷を運んだ。植物質の自給飼料が動物エネルギーに変わり、重くてきつい作業を担ってもらっていたのだ。

 “家畜” の言葉どおり、こうした動物は “家族の一員” だった。雪の降らない地域では母屋とは別棟に飼育小屋を設けたのは、糞尿の臭いがあり、衛生上のこともあった。だが雪国では母屋から遠いと真冬の家畜の世話が困難になる。母屋の玄関口に馬、牛、鶏などが同居していた。馬や牛の鼻面をなでながら家に出入りしたのだ。動物たちの生き死には農家経済の上で大きな事態でもあったが、同時に家族の祝い事や弔いにも似た喜びや悲しみを伴うものだった。子どもにとっては家畜を飼う技すなわち動物とのつき合い方を学び、生と死のこと、生けるものに寄せるべき心を学ばせてくれる存在だった。

 1961年の農業基本法以来、そうした有畜複合農家は急激に減り、“経済動物” の飼育に特化した「畜産業」が現れ、かつての “家畜” は姿を消してしまった。金勘定だけでは測れない人と動物の交流は、1000年を超える大切な農の歴史であったのだが・・・。