農と暮らしの技(3) 家畜のいるくらし(その三)

 昭和37年 (1962) に葉タバコ栽培を始めたが、それまでは養蚕をしていた。私は8歳だった。蚕 (かいこ) だけは、私は好きになれなかった。茶の間にも蚕棚を置くことがあって、桑葉を食むシャワシャワという音が今も耳に残っている。自分の食事と重なるときは特に不快だったが、家の現金収入として重視されていることも分かっていたのだろうと思う。いやだとは言えなかった。葉タバコ栽培に変わったことを内心喜んだように当時を思い返す。

 養蚕はとても手間がかかる仕事だが農民にとっては稼ぎ頭の家畜であり、明治以降の殖産興業に大きく貢献した生きものである。農村で養蚕技術はとても大事にされた。蚕の糞「コクソ」は良い肥料になった。『カムイ伝』にも、『農民哀史』にもコクソのことが出てくる。

 蚕を嫌うもう一つの理由がある。繭 (まゆ) を収穫する際に少量の不良品が出る。この不良繭をほどいて “真綿” にして冬着などに使ったのだが、中にいる蛹 (さなぎ) を食用にしたのだ。こんな不味いものを他に知らない。幼虫時代を知っているからなおさら口にしたくなかった。養蚕をやめたことを喜ばなかったはずはない。蚕の蛹は鯉の餌にもなり、鯉が食卓に上ることは歓迎だった。

 当時の台所の排水は、家の裏にある池 (タネと呼んだ) に流し込んでいた。排水中の生ゴミを鯉の餌にして排水浄化に使ったのだ。村々の多くの家が池を備えていた。魚の自給のほかにいくつも用途があったからだ。例えば、当時の赤ん坊の布オシメはこの池で洗い、便を鯉に食べさせた。風呂の排水も同様に池で浄化した。冬季は用水路から家の周囲ぐるりに水をかけ流し、融雪につかった。雪国では池 (タネ) の存在は今も必須要件だ。

 当時、台所 (スイバンと呼んでいた) へは細い水路で導いて川水を飲食用に使っていた。台所で流水を溜める石囲いは足場より低い。洗い物をする母と祖母の台所仕事はとてもきつかったに違いない。

 集落を貫通する用水路は1~2km先の湧水口から流れ出る川を整えたもので、岩魚がいた。幼馴染と岩魚獲りに夢中になった時期がある。岩魚も自給食料だった。その流れの水が飲用水だったので、水を濁す岩魚獲りをすると、家々の大人からよく叱られた。その後まもなく、湧水口に取水施設ができて上水道が敷かれた。ほぼ同時期に、この川の岩魚も姿を消したのだろうと思う。

 家畜というと、一般的には四つ足の動物と鶏くらいしか話題にならないが、かつての農村には収入源となり自給用にもなったさまざまな動物がいた。子どもは日々のくらしの中でこうした動物とのつき合い方を学びながら育ったのだ。