徒然に(6) 糞考(その二、糞肥)

 洋の東西を問わず、家畜糞が作物の栄養源になることは知られていた。ただし、小屋飼いなら糞尿を確保できるが、放し飼いの場合は容易ではない。放牧が主体の欧州では、放牧中の畜糞で肥やした後に作物栽培する三圃式の方法があった。

 家畜糞が肥料になるなら人糞尿も、と考えたのは道理である。日本ではずいぶん古い時代から、農民は自家の糞尿にとどまらず町屋から回収されたそれも使っていた。汚穢屋 (おわいや) と呼ばれた回収業者から農民の手に渡った。

  『農民哀史』(渋谷定輔.1970) に、1925年(大正14年)当時の人糞尿(下肥)利用のことが出てくる。「(東武東上線鶴瀬) 駅の貨物ホームには、すでに、東京から昨夜おそく輸送されてきた糞尿 (タメ) 樽がたくさん並んでいる。…… 一樽の目方が十二貫目 (約48㎏) ある。それを牛車や荷車に積みこむのもひと仕事だ。…… 私の家ではこのタメを篠山の桑畑の肥料にするのだ。鶴瀬駅から篠山までは二里半 (10㎞? おそらく2.5kmのこと) も離れている。そこへ一人で運搬するわけだ。これを半日に二回やらねばならぬ。今日は牛車が使用できないので、荷車だから運搬するだけでも相当な仕事である」(運んだあと、畑に散布するきつい仕事が待っている)

 鉄道で運ばれてきた東京市民の糞尿が、農民の肉体労働によって肥料にされたことの記述である。そこまでして… と現代人なら顔をしかめるだろうが、それほど貴重な資源だったことがうかがわれる。裏返せば、江戸、東京の衛生は近郊農村が一翼を担っていたことになる。

 渋谷定輔は、1905年埼玉県南畑村 (現富士見市) 生まれの青年農民。機関紙『農民自治』『農民闘争』を主宰した農民運動者であり、詩集『野良に叫ぶ』(1926)を著わした文学青年だった。『農民哀史』はちょうど50年前、19歳のときに読んで深く脳裏に刻みこんだ本である。この本がその後の私を作った「出自」かもしれない。

 一節を紹介しよう。「私はこういう農民の生活を呪わしく思わずにはいられない。たとえば今夜の飯を見よ。大麦の割とサツマ芋の刻みだ。副食物は大根の頭とその葉だ。農村の金持や都会の人びとは、こんな物は捨ててしまう。牛か豚にやるものだ。…… 米の生産者たる私たちが、米が食えず、野菜の生産者たる私たちがその捨てる処だけを食わねばならぬとは全くウソのような事実だ」

 このような実態は戦後に解消されたとはいえ、専業農民のくらしが人並みに豊かになったかといえば事実は異なる。離農者の激増がそれを物語っている。渋谷らが起こした農民運動の課題は、残念ながら今もくすぶっている。

 人糞尿利用は、数百年以前から1960年代まで続いていたが、衛生改善の風潮がそれを許さなくなった。ところがまた、人糞尿利用を再開しようという機運がある。問題ないのか、有用資源として今後どのように活用したらいいのかは、次回 (糞肥つづき) に述べてみたい。 

『農民哀史』1970、A5版707p、勁草書房                   1925年(大正14年)5月から翌1926年(昭和元年)12月まで、青年農民渋谷定輔19~21歳の克明な日記である。『女工哀史』の著者細井和喜蔵と約した48年目の刊行。19歳の私の心を震わせた本だった。