自然共生の農と食を未来人の手に(2) 新・農家100万戸育成計画(その一、三面六臂)

 農は3つの顔を持っている。食料生産だけが農の顔ではない。

 農産物生産が農業の表面だとしたら、その側面には農民とその家族 (あるいは従業員) という主体者がいて、その主体者が担う農山村という地域 (社会と環境) がある。

 唐突だが、一つ喩えを試みる。仏教に阿修羅という守護神がいる。阿修羅像は3つの顔を持ち、6本の手を備えている。本来の農とは、農産物生産 (業) を行いながら、家族と周辺の人々 (人) のくらしを支え、協同して地域社会を担い環境を守る (地域)、という3つの顔を持っていて、阿修羅が6本の手を持っているがごとく多機能な存在なのだ。

 戦闘を担う鬼「阿修羅」は、農を喩えるのにふさわしくないと言われればそのとおりなのだが、八面六臂ならぬ三面六臂の活動をするのが、そもそもの農だと言いたいのだ。その多面性は「百姓」という言葉にも表現されてきた。農産物生産のかたわら、地域内でくらしに関わるさまざまな職・技能を持って分業してきた多機能社会が農村であった。農民集団による「地域内自給の総合力が農」だった、と言ってもいい。

 過去数十年の間に、農がその多機能性を徐々に放擲し合理性だけを追求してきたことも、現代の地球環境問題につながる負の遺産だと私は考える。したがって、環境への負荷を最小にし、さらに負ったダメージを修復できる農であるためには、三面六臂の働きができる農家が増えることが望ましい。そして、そういう農を支える公共であらねばならない。農産物生産だけに照明を当てるような農の議論ではいけない。

 幸いなことに、私がこれまで出会ってきた就農志向者の多くが、そうした多機能性に関心を寄せてくれる人々だった。生産だけに興味があるという人は、むしろ少数派だった。くらし、家族、田舎、資源、自然環境といったキーワードに感受性を持つ人々にこそ、未来への希望を託せると実感した。そういう人々が希望を叶えてたくさん就農できるようになってほしい。

 短絡的に昔に戻れと言っているのではない。本来の農が為してきた数々の価値あるもの、それに近づきたいと望みを持つ人々が確実に存在するのだから、そうした人々に農へのアプローチを期待し、接点を作って導き、支援し、新たな担い手になってもらう仕組みを整えたいと思う。そうすべきだと思う。

 三面六臂の新・農家100万戸育成計画を急ぎ起ち上げようではないか。未来人の食とくらしを間違いなく保障するために。