この国のかたち(4) 弱者差別が行き過ぎていないか

 新聞報道に怒りを覚えることが多くなってきた。年齢的にも気が短くなって、情動に抑制が効かなくなってきたのかもしれない。自省しなければと思いつつ、この国指導者たちの思想に合点がいかないことが多いのだ。

 零細業者や個人事業主に否応なく消費税負担を強いるインボイスの実施が迫られる中、他国との戦闘機開発の共同事業では消費税負担を免除しようかと、そんな検討がなされているという。数百億円だか数千億円だか知らないが、膨大な規模の軍事関連事業には1,000を超える企業が関わるという。戦争好きの与党議員たちが軍需産業を厚遇しようとする様は、もはや「新しい戦前」そのものに見える。1900年代初頭から敗戦まで、まさに弱者が見捨てられ、踏み台にされ、命を投げ出せと強いられた時代である。また繰り返すのか。

 辺野古をめぐる裁判で、また沖縄県が敗訴した。最高裁さえ沖縄を見捨てるのだ。沖縄本島をはじめ、宮古島石垣島与那国島など先島諸島にも農学校時代の同窓生、教え子たちが何人もいる。またも戦場になるかもしれないと危機感でいっぱいだろうと思う。沖縄という端っこの島々を盾と鉾(ミサイル基地)にして、いったい何を守ろうというのか。弱者沖縄への差別そのものではないか。

  「死闘伊江島戦 ― 浮沈空母にされたシマ・激闘下の女性たち ― 」(しんざとけんしん作、石原昌家監修、琉球新報社)前・後編2巻が手元にある。1945年4月16日の米軍上陸から守備隊玉砕まで6日間の伊江島戦は、沖縄戦の縮図といわれる。「まえがき」の一部を引用してみよう。

  『伊江島では多数の民間人を戦闘員として使っていた。その中には夫人も随分いて、乳飲み子を背負った夫人もいた。こういう人たちが斬り込み隊に加わり、自ら死ぬと知りながら、死に物狂いで米軍陣地に突進してきた。彼女たちは日本兵の軍服を着せられ、見分けがつかなかった。夜が明け、ほとんどが米軍の欺兵線内で死んでいた(米軍戦闘報告書)』

 新里堅進さんの「水筒:ひめゆり学徒隊戦記・上下巻」も蔵書の一つである。人間性を失った権力者・軍人たちの行為による惨禍だった沖縄戦を、戦争を知らない私たち世代も、それを知る努力が求められる。その目的は「弱者差別をしない、見捨てない」ためだ。

事実にもとづいて、戦争のすさまじさ、むごさを圧倒的な画力で描く

 

 地元の有機農家たちが必死の思いで開拓した共同販路の一つが、インボイスのせいでご破算になった。課税登録事業者でない有機農家集団が、売り先から締め出されたのだ。インボイス登録をしてもしなくても不利益を被る。収入減を誰も保障してくれない。弱者いじめ以外のなにものでもない。