徒然に(2) 友を訪ねて

 “朋(とも)遠方より来る。また楽しからずや” と古典にある。この気分を十分に味わう旅をした。“友を誘い、古き友らを遠方に訪ねる。大いに楽しからずや”。萩と周防への旅だった。

 48年前に常陸野の小さな農学校で出会い、寝食を共にし、兄弟姉妹以上の親密な交友をした同級の友垣。身心とも丸裸で付き合った友らと、10数年ぶり、30年ぶり、45年ぶりの再会は、一瞬にして昭和50年にタイムスリップ。現実は70歳目前の老人6人ながら、夕餉の乾杯の後は青年の気概が蘇ったかのよう。顔つきまで若返った。2夜の酒盛りのなんと楽しかったことか。

 鯉淵学園という農業と食生活を学ぶ「各種学校」。昭和20年創立のこの学校は、自由な教育を求めて文部省の定める教育制度に従うことをよしとせず、独自のカリキュラムをもった実践的農学校だった。3年制・2学科で、農業科は農業改良普及員資格試験を受験でき、生活栄養科は卒業時に栄養士資格を得た。作物園芸、畜産、栄養学等の専門科目のほか、社会科学系の科目が充実していた。農村における実践的・指導的人材を育てるという教育目標があり、人格形成を重んじた学校だった。学生は北海道から沖縄まで全47都道府県から集まっていた。

 当時の学生が最も多くの学びを得たのは「完全自治の全寮制生活」からだった。旧友らとの思いで話のほとんどが、この「誇らしい学生自治」の経験だった。

 全学生約400名は敷地内にある男子寮と女子寮に住まい、舎監は置かず、食住の全てを学生自治会が管理していた。数千万円規模の運営費と数名の調理員を雇用する学生食堂運営までも、学生自治会栄養部が担った。高度経済成長期だったので、授業料などは毎年値上げが企図されたが、この学生負担金さえ、経営者の理事会と教育担当の教授会、そして学生自治会の「三者が一堂に会して話し合ってから」決めるという「三者会」なる仕組みもあった。田舎の小さな農学校ながら、こんな理想的な学び舎があったのだ。ここでの自由闊達な学びが何物にも代えがたい誇りを育て、私も友らもその人となりを培った。

 時代の変遷とともに学生自治の力は衰え、今はその片鱗もない。学生は減り教育の中身もずいぶん変わった。仕方のないことだが寂しくもある。

 私は卒業後に教員として残った。他に類を見ない完全自治の寮生活を記録に残そうと、同窓会40周年記念事業で「鯉渕学園学生寮史(1945-1986)」(1991、B5版710p)を編纂した。学生104名の協力を得て、1982年から足かけ9年を要した編集作業も学生自治会あって可能ならしめたのだ。この「寮史」には、学生たちの、良き社会人たらんとする真摯かつ意欲的な姿があふれんばかりに記録されている。