【運命共同体社会】農漁村に原発は相容れない(その二)

 農民は、人生のうちの圧倒的長時間を屋外で過ごす。

 野良仕事中、ふと一息作業の手を止めたとき、視界に入るすべてが農民にとってかけがえのないものになる。目にする景色のすべてが日々のくらしに伴走し、人生の色濃い時間として体に刻まれる。農地と里山、小川、道端の野草、農道や住民の家屋、遠くに見える山々や街並みなど、それらは時間の経過とともに変化もするが、半永久的にそこにあり続けるだろうと信じて疑うことはなかった。

 地域の人々と苦楽を共にし、四季の移ろいを喜び、あるいは小さな無数の生きものに触れ、山野の恵みを慎んでいただき、過去から今、そして未来へと移る時間。血縁と地縁に連なった人々の絆、仕事とくらし。

 原発事故は、農民からそのすべてを奪った。その哀しみが、どれだけ他者に分かるだろうか。

 

 5月のはじめ、毎年、故郷から粽(ちまき)が届く。老いた母と義姉の丹精による。この伝統食は、兄が初夏に山に入って笹の葉と菅(すげ)を取ってくるところから始まり、もち米を穫って、1年後にようやく粽になる。

 放射能で山が汚染されたら、故郷の粽の文化は永久に失われる。

 これはたった一つの例えである。無数にある。わが故郷だったらと想像するだけで耐えられない。故郷を奪われた人々の絶望は、想像するに余りある。

 

 宮崎駿のアニメ「風の谷のナウシカ」で、主人公ナウシカを慕う老農夫たちの言葉が切ない。侵略者に向かってこう言う。

 「この手を見てくだされ。(病に侵されて変形した手指を見せながら)わしらの姫さまは、この手を好きだと言うてくれる。働き者のきれいな手だと言うてくれましたわい」「あんたは火を使う。そりゃわしらもちょびっとは使うがのう。多すぎる火は何も生みやせん。火は森を一日で灰にする。水と風は百年かけて森を育てるんじゃ。わしらは水と風の方がええ」

 1984年に公開され、今も世界中で愛されるこのアニメ。科学文明を崩壊させた終末戦争の1,000年後を描く。「多すぎる火」が何を喩えているか。吸い込むと命にかかわる「瘴気(しょうき)」の毒が何か。

 広島、長崎、チェルノービリ(チェルノブイリ1986)、福島の放射能汚染と重ね合わせてみれば、この老農夫の述懐こそ噛みしめるべきだとわかる。

 

 歳とったからか、すぐ涙ぐむようになった。「この手を見てくだされ」のくだりになると毎回グッと胸がつまる。