【運命共同体社会】農漁村に原発は相容れない(その一)

 2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震東日本大震災)による大津波で、福島第一原子力発電所の爆発事故が起こった。広範囲で深刻な放射能汚染によって福島県民多数が避難を強いられ、ふるさとを失った。

 

 そのわずかひと月前、私は34年勤務した鯉淵学園農業栄養専門学校に退職届を提出。独立自営農民になろうと起業の準備に駆けまわり、とりあえず50アールほどの農地を借りる手はずが着いた、まさにその矢先だった。茨城県のこの地にも放射性物質は容赦なく降り注いだ。

 想定外のできごとに一時は呆然としたが、就農の決意をゆるがせにしたくなかった私は、直後からジャガイモ、トマト、ナスなど、可能な作物はすべて作付けして営農をスタートさせた。57歳の新規就農に後戻りは許されない。結局この年、収穫物の放射性物質測定に要した経費は30万円を超し、翌年も10数万円の経費を要した。

 小なりといえど、就農当初から原発事故の被害を受け、その対応に振り回された一人として、明確に言いたい。

 原子力は人間の手に負えない。発電に使うべきではない。

 

2011年 放射能汚染とともに歩みだした「あした有機農園」


 日本中の原発はすべて廃炉にし、再生可能エネルギーへの全面的な転換に踏み切るべきである。

 いったん事故が起こればその後始末に数十年、あるいは100年単位の時間を要し、人社会とともに自然環境にも甚大な破壊をもたらす。たとえ事故がなくても、廃棄物の処理に万年単位の時間が必要で、その方法は確立されていない。トイレのないマンションなどと揶揄される原子力は許されざる技術だと、当時、多くの人がそう思った。原発事故を受けて国民多数がエネルギー政策の転換を支持した。これほど分かりやすい論理なのに、日本政府はなぜ「原子力利用は止めよう」と言わないのか。

 ふるさとを失った福島の避難民、さらに広い地域で仕事とくらしを失い、またはいずれかを変えざるを得なかった多くの人々の怒りと苦悩、哀しみを想う。広島、長崎、チェルノービリ(チェルノブイリ1986)、そして福島。次は絶対にあってはならない。

 

 原発事故で何を失ったのか。今後、農村地域で失ってならないものは何か。農村に生まれ、成人して後は側面から農業に長く関わり、原発事故と同時にスタートした独立農民の一人として、この後じっくり述べてみたい。農漁村人でないと分からない悲痛な想いがたくさんあるのだから。