【運命共同体社会】農漁村に原発は相容れない(その四)

 過去から今、未来へと移る時の流れ、血縁と地縁に連なった人々の絆、仕事とくらし。原発事故は農民からそのすべてを奪った。(その二)で、そう書いた。

 すべてを奪われた人々は「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」と裁判に訴えた。原告4,000人の訴えは「放射性物質に汚染された地域を事故前の状態に戻せ」であり、奪われた生業を取り戻すためのあらゆる補償である。その痛苦の叫びを理解するためには、農村社会の本質を知る必要がある。

 50年前、私は農学校で農の歴史とその社会のありようをこんな風に教わった。ゲマインシャフトゲゼルシャフト社会学で使われるドイツ語だという。

 農村は「共同体社会(ゲマインシャフト)」であり、血縁や地縁にもとづいて農耕文化とともに成立し、緊張関係がなく一体感のある社会だと。農民はみな屋外で仕事し、互いに目で見える。お互いがその仕事とくらしのありようをよく理解し合い、共有し、容易に協力し合える。それは農に限らない。地域にある自動車修理業にしても、まちの飲食店にしても、家族が営む生業であれば互いにその仕事が見える。長い時間の経過とともにあって、言葉を尽くさなくても理解し合える関係が「共同体社会」である。

 原発はまったく異質の存在である。

 企業は「利益社会(ゲゼルシャフト)」に属する。近代に現れた機能集団のことで、明確な目標を持ち、利害や打算にもとづいて行動しようとする人為的な集団。集団内につねに緊張関係が存在し、厳密なルールを必要とする。きびしく縛られた集団は、内部でも外部者とも自由意思にもとづく一体感は生まれにくい。共同体社会に利益社会たる大企業が割り込んできて共存を図ったとしても、共同は難しい。相容れない存在だから。

 農村人が利益社会の一員になることはあり得る。限られた時間で企業に雇用されることはごく普通のことだが、勤めを終えて帰るくらしの場所は共同体社会だ。生業を営む家族とのくらしに農村人の根っこがある。

 原発はそのくらしの根っこを奪った。新参者が横暴によって先住者を追い出したのだ。その怒りがいかに大きなものであるか。共同体社会の本質を理解することなしに原発事故の被害は語れない。

 各地の原発立地の住民のなかに、原発誘致のはじめから反対を表明していた人々がいた。その異質で有害な存在を肌感覚で見抜いていた人々だ。敬意をもってその行動を称えなければならない。

 

 学校や病院、町役場などもゲゼルシャフト(機能集団)であるが、共同体社会の構成員によって、必要性があって起ち上げられた「自律的集団」であって原発とは本質的に異なる。外部からいわば強引にやってきた大企業とはまったく違う。共同体内部で起ち上げる地域企業もゲマインシャフトの一員だろうと思う。農漁村人の目に常に見えるものであれば。

鶏の解体を教わる(2019) 先生は「旬の野菜 爽菜農園」の小野寺徹さん