農民、農家、百姓(3) 百姓は多機能な仕事人集団

菰(こも)編みを体験する


 百姓(ひゃくしょう)は長く差別用語として扱われてきた。だからか、現代農民のほとんどは自らを百姓と呼ばないし、関係者も今やまったくこの言葉を使わない。農村ではほとんど死語になっている。

 一方、近年になって農外から参入した就農者の中に、あえて百姓と自称する人がいる。その想いには私も賛同するところがある。意外にも、農外の人々の中に百姓の真の意味合いを理解している人がいるのだ。

 

 現代では「百姓=(過去の)農民」とだけ理解されている。だが過去の百姓は、単に農作業を行うだけの存在ではなかった。農村社会に必要なあらゆる要素を備える多機能集団を意味していたのだが、現代人の多くはそのことを忘れてしまったようだ。姓は「かばね」と読み、特定の技術職あるいはその技術技能を代々伝える家系のことを謂った。

 経験を話そう。新潟県の中山間地、河岸段丘で名を知られた町の一隅、80戸ほどの集落に私は生まれ育った。この集落には「かじや(鍛冶屋)」「だいく(大工)」「やねや(屋根屋)」「とうふや(豆腐屋)」「げたや(下駄屋)」などの屋号を持つ家があった。この他にも1~2,それらしい屋号があったように思うが、なにしろ60年以前のことで記憶が薄れてしまった。

 これらの家はいずれも農家であったが、「大工職」「豆腐作り」などを副業にしていた。「やねや」「げたや」も同様だった。「かじや」はそのころすでに廃業していたように思う。

 このように、農民でありながら同時に様々な職人を兼ねる人々のことを百姓と呼んだのであり、蔑む理由は一つもない。人々はその腕に培った技術技能を誇りにしていたに違いない。このような村に生まれ、そうした文化の残る場所と時代を過ごせたことを、私はとても誇らしく思う。

 私の父は、長く雪に閉ざされる冬になると筵(むしろ)を編み、荒縄を綯(な)い、根曲竹の竹籠を編むなどしていた。これらも副業である。筵や菰(こも)編み、荒縄綯いなどを私も手伝っていたが、今となっては残念ながらその習い覚えた技術を使う場がない。ちなみに、わが実家の屋号は「しんでん(新田)」だった。

 

 こうした歴史を知った現代人の中に、あえて百姓たるべく、多機能な農民をめざす人がいるのである。いいじゃないか!