農民、農家、百姓(2) 農家は未来に文化をつなぐ


 農業者よりは農民の呼び名がいい。だが、そう呼ぶ人は少ない。

 過去数十年で …民の言い方はずいぶん廃れてきた。その背景には、農民とか漁民の「民」の語に蔑みを感じる人がいるのかもしれない。だとしたら明らかな偏見だが、そんな偏った、歴史的な印象に染まった語感があるとしたら、その潜在意識からはきちんと脱しないといけない。

 

 農家という呼称についても、同根の潜在意識が感じられる。

 近ごろ、多くの市民(農民でない人々)が、農家にわざわざ「さん」を付けて「農家さん」などと呼ぶ。農家さんの言い方がずいぶん一般化したように思うが、これも私には大きな違和感があり、危険な風潮を感じてしまう。

 なぜわざわざ「さん」を付けるのか。さん付け事例のほとんどは善意の敬称なのだろうと思うが、その根底には「農家」「農業」への歴史的な「低位」認識が潜在的に残っているからではないのか。さんを付けることで、評価を「底上げしてやりたい」という善意が現れるのではないか。ひねくれた理解だろうか。

 音楽家、陶芸家、書道家などには「さん」を付けたりしないじゃないか。

 

 農家の呼び方には、過去の封建的な家制度の匂いが残っているかもしれない。家父長を頂点とした家族のあり方が不文律であった歴史があり、「家の子郎党(武家)」、「民百姓(庶民)」など身分制度に厳しく縛られた時代の残滓である。普段はだれも意識しないし、現代においてはそんな縛りはもとより全くない。だが、そんな残滓を現代市民が感じ取ってしまうこともさん付けの遠因かもしれない。

 

 しかし、やはり農家の呼称はいい。

 別の視点を持てば、未来的な理想的な呼び方であろうと思う。仕事とくらしのさまざまな技術技能とその文化を受け繋いでいく家族のあり方がある。さまざまな命を育み、感謝して命をいただく日々の営みを、家族の皆が参加し共有することで次世代へとその文化を確実に繋いでいく。そんな可能性を包み込んだ呼び名だと思う。

 日本に限らない。国連のプロジェクト「家族農業の10年」(2019~2028)には、そんな意味合いと期待が濃厚に込められている。