農と暮らしの技(4) 山の幸を知る、使う(その三、竹細工)

 山野には、くらしに役立つさまざまな資源があり、農山村の人々はそれを使いこなす技 (わざ) をたくさん持っていた。

 例えば、私の父は晩年に綴った手記の中でこう言っている。「昔の人は生活 (くらし) の中でワラと竹は生活の必需品。無くては暮せない大事な物でした」(『雪国の農家の生活 (くらし) 』2004、涌井富太郎) 稲わらでいろんな道具を編み出したことは前に書いた。今回は竹の利用について書いてみよう。

  「竹には孟宗竹から煤竹 (すすたけ ※) まで大小様々な竹がある。然し根曲竹は雪深いこの地にしかない。根 (元) は曲がり節は大きい。だが丈夫にかけてはどの竹もかなわない」(同上)

 30代から40代にかけて、父は冬の時季2階の作業場で竹細工に余念がなかった。筵にあぐらで座り、広げた厚手の前掛けの上で割ナタで根曲竹を器用に割いていく様子が、鮮やかな映像として私の記憶に残っている。

 昭和30~40年代、急激な経済成長が農家のくらしを変えていった時代。農業機械の導入、くらしの電化、子どもの教育費の必要などから、農家も現金収入を増やす必要に迫られた。冬、雪に閉ざされる雪国では、関東以南に出稼ぎに出る者のほか、家でできる副業を見つける者がいた。父は親戚筋の家に通って竹細工を習い覚え、副業にしていたのだ。

 「秋から冬にかけて天気さえよければ五kmも六kmもある深山に入り、竹を切り出し、四、五十kgもある重い竹を背負い、遠い山坂を越えて家に運んでくるのです。どんな竹でもよければ近くで間似合うけれど、細工ものとなると若竹でなければなりません」運んできた竹束が家の前の用水路に漬けおきされてある様子も、私の記憶映像に残っている。浅い笊 (ざる) 、やや深いボテ、用途別の籠 (かご) 類を編んでいた。

 故郷の町と県境で接する栄村に “箕作 (みつくり) ”という地名がある。箕を代名詞にして、竹細工を生業にしていた山人 (やまびと) たちの住む地をそう呼んだのではないか。平地がなくて田を作れず、畑作だけでは暮せない山村の人々の手仕事だ。わが父の竹細工も、そうした人々の技術の末だったに違いない。

 “箕作り” の人々のことは、藤沢周平の『春秋山伏記』にも描かれている。羽黒山で修業した人間臭い青年山伏が主人公の小説だが、私の故郷の風物と似たところがあっておもしろい。“箕作り” の由来はこの小説で知った。

 父が、鼻歌を歌いながら竹細工していたころを懐かしく思い出す。60年以上も前のことだ。その後さまざまな竹細工物、竹工芸品を見てきたが、根曲竹で作ったものほど仕上がりがきれいで丈夫そうに見えるものに出会っていない。

※「煤竹」は茅葺き屋根の骨組みに使った竹で、屋根裏で100年、200年も囲炉裏の煙に燻されたもの。これを再利用した細工物は独特の風合を持つと珍重される。

根曲竹で作っていた細工物、竹箕(み)は農家の必需品だった。(父 富太郎の手書き)