農と暮らしの技(4) 山の幸を知る、使う(その四、山の動物)

 山の動物のことを思うとき、いつも少しの動揺を覚える。その理由は分かっている。小さいときに度々聞かされた狐や貉 (むじな) に化かされた話、山犬に追われた話などを思い出すからだ。小さな子どもたちが集まる場で、父はいつもそんな話をして面白がっているようだった。

 やや長じて5~6年生になったころか、この目で貉を見る機会があった。近所の家でその死骸を見せてもらったのだが、初めて見る貉は想像より小さな動物だと感じた。山は深く、大人たちも山中で生きた獣を直接目にすることは少なかったに違いない。「狐狸妖怪」話が生まれるのは、めったに姿を見せない動物だったからだ。

 この目で直接見てからは、憑き物が落ちたように化け物意識がどこかに行って、何度か食べたことのある兎と狐狸貉を同列に思えるようになった。

 農家にとってウサギは害獣である。洋の東西を問わずその認識は同じだろう。故郷でも、雪が凍みて固くなるころ村をあげて兎狩りをした。畑に接続する山域を狩場にして、大勢の勢子が金物を叩いて兎を追い立て、待ち構える猟師が鉄砲で仕留める。子どもながら一度だけその勢子の端に加えてもらったことがある。仕留めた兎は分け合い、食卓に載るのだ。兎肉は柔らかく美味しかった。

 熊は恐ろしい獣である。それは昔も今も変わらない。キノコ採りに山に分け入ると、父が木の肌に残る熊の爪痕を見つけて「これはまだ最近のキズだな」などと言う。私はただただ怖くて早く帰りたい一心。キノコは目に入らなくなった。

 そんな経験をすると、その夜から熊に追いかけられる夢を見続けることになる。熊から逃げようと、宙を飛ぶように山肌を駆け降りる自分の夢を何度もなんども見続け、その恐怖を今も思い出すのだ。汗をかき、時には夢の中で泣き叫んだかもしれない。動物園は好きだが、今もって熊だけは好きになれない。

 そんな熊は、当時は里に近づくことなどなかった。大人たちからそんな話を聞いたことがない。ところが近年、生家の「トウモロコシ畑が荒らされた」「家のすぐそばまで来た」などと聞く。また、山奥にしかいなかったカモシカが集落近くまでやって来たという。山の動物の生態を変えてしまったのは、農山村の人々の行動が変わり、山の恵みが棄損されたからだろう、と思う。

 怖いこわい熊の肉には縁がなかった。だが、熊の胆 (くまのい) という薬には、子ども時代になんどかお世話になった。かなり高額の薬である。万能薬とされ、その効果は絶大で信頼性は高い。その反映で「にせ熊」と呼ばれる物も出回った。豚の肝を同様に黒く干したもの、さらには “百草丸” という黒い小粒の伝統薬がそんな風に呼ばれた。百草丸は “黄肌 (キハダ)” という木の皮 (オウバク) を主材料にした丸薬。とても苦いが消化薬としては効果抜群で今も大いにお世話になっている。こうした生薬、漢方薬の類も山の幸である。