農と暮らしの技(4) 山の幸を知る、使う(その五「焚き物」のつづき)

 ボヤ (柴) のほかに、太い丸太も橇で運び、早春の雪の上で鉞 (まさかり) で割って “にお” に積んだ。鉞の使い方も高学年になったころに自得したように思う。薪やボヤの “にお” の積み方も見て覚えた。両端2本ずつの柱木間に針金を渡してこの上に薪を積むと、薪自体の重みで支えの柱木が内側に締まり、におが崩れない。こんな些細な知恵が、農のくらしには無数にある。

 地炉 (囲炉裏) にはさまざまな効用がある。火を焚くと家中が暖まる。炉の上に火棚があり、この上に濡れた長靴や雪かき道具などを乗せて乾かす。川魚の干物を作ったりもする。熾火のそばの灰の中に硬い鬼胡桃を埋めておくとパチンと爆ぜる。割れ目に鉈を入れると子どもでも簡単に割れて実をほじくり出せる。渋柿を熾火に埋めればほかほかの甘柿になる。湾曲した脚付き金網があり、餅を焼き、焼き豆腐を作ったりもする。片隅に蓋つきの壺があった。寝る前に赤い熾 (おき) をこの壺に入れておくと「消し炭」ができる。これを炬燵や火熨斗 (ひのし、アイロン) に使うのだ。

 秋遅く、子どもは通学時に1mほどのわら縄を携えていった。帰りに道草ならぬ杉の枯葉拾いをして持ち帰る。杉の落ち葉が地炉や竈の着火材としてうってつけなのだ。たくさん拾い集めて屋根裏の焚き物部屋に蓄えておく。杉の葉拾いは一体に子どもの役割で、教室の石炭ストーブにも使ったので、学校に持ち寄る全校イベントもあったっけ。

 大昔の話ではない。私の年代にとっては、ほんのちょっと前の時代のことだ。いわゆる里山の資源をとても上手に、かつ持続的に使いこなす知恵と技術と村人協同のしくみを持っていたのだ。大人から子どもまで、うまく分担し合っていたし、山の動物とも巧みな距離を保っていたのだ。現代のような獣害は考えられなかったと思う。

 過去数十年来、国産の木材を使わずに大量の外材を輸入するようになって建材の利用が激減した。農村部でも「焚き物」が石油とガスに置き換わって、燃料としての山の幸が忘れ去られた。そして何より、山の幸を効果的に使う文化が急激に廃れてしまったことが悔しい。本の森林率は68%もあり、世界平均30%の2倍を超えるのに、なぜこの宝を使えなくなったのか。

 農学校の教員時代、家の新築時に薪ストーブを入れた。以来10年間は週末ごとに薪割に精出し、家中が暖まって幸せだった。57歳で専業農家になったら週末がなくなり、薪割ができなくなって、その不条理に悶々とした。かつては家族農業だったから山の幸が使えたのだ。一人農業ではそれは困難だった。