いまや小説も漫画も、スマホやパソコン画面で読めるそうだが、なんとも気に入らない。紙の本がいいに決まっている。俳優たちがテレビで「セリフは紙の台本でないと覚えられない」と口々に言っていた。そうだろうと思う。
まちの本屋が消えつつあるという。人類が営々と積み上げてきた活字文化が衰退するのではないか。社会の知的退行を招くのではないか。
先の「三屋清左衛門残日録」はもう10回くらい読んでいるが、まだ読み尽くせていないように思う。本屋に並ぶ文庫版の藤沢作品はすべて買って読んだ。その以前は池波正太郎や司馬遼太郎、ジェフリー・アーチャー等々。そのほとんどを2回以上は読んだと思う。20~30代のころは福永武彦や伊藤整、灰谷健次郎、遠藤周作、モーリス・ルブランのルパン物、あるいはマーク・トウェイン、ニーチェやパスカル、キィエルケゴール、西田幾多郎、小林秀雄、10代は森鴎外、芥川龍之介、下村湖人、等々数え切れない。種々雑多でとりとめないが、紙の本だからこそ、その時そのときの自分の心境に合わせて手と目で選び、じっくりと味わえたと思う。
若いころ何度も読んだ本の中には、今は手にとっても読めないものが多くなった。「分かってしまって」胸に馴染めなくなったもの、内容が軽すぎてつまらなくなったもの。老年の心境に合う合わないもある。40~50年前の自分と「大人になった」自分の変化、幾多の本があったからそれが分かるのだ。
漫画ではあるが、白土三平の「カムイ伝(全15巻)」を50年ぶりに再読した。マルクスの資本論は読みこなせなかったが、あるいは匹敵する哲学書ではないか。士農工商エタ非人の身分制度、農民の悲哀と命をかけた闘争など、50年前に感じたドキドキ感は期待したほど戻ってこなかったが、当時も感じた怒りのような感情はより強く蘇った。
50年前より現代の方が、カムイ伝の時代に戻りつつあるような、そんな現代社会の退行を感じてしまう。だが、現代の農民は団結せず怒りの行動も起こさない。哀しみとあきらめが支配してしまったようだ。私の青年時代は、いまよりずっと格差の小さな希望の持てる社会だった。その50年後、工学技術が明るい未来を作る条件ではなかったことが証明され、それを身をもって知ってしまった。
学校の教科書をデジタル化しようとしているが、大反対だ。人間の頭脳と心をロボット化してしまうだろう。リモートで容易に操作される人間集団を作り出そうというのか。権力者と経済界がそれを望むのか。愚かさが社会を支配しつつあるように思えてしかたがない。未来社会でも、紙の本をじっくり読める人々が多数であってほしい。賢人から学べる社会のことだ。