徒然に(5) 賢人に学ぶ(一)

 壮年になってから、自分の発言、行動に正当性があるか、何か欠陥があるかもしれないと徐々に不安が募るようになった。「これが正義だ」と自分の主張を一方的に押し付ける増上慢に陥ってはいないかと、そいう煩悶だった。

 はるか昔に父親に言われた言葉が蘇った。「話し上手は聞き上手」、自分が話すより人に聞く時間を長くし大切にすること。ああこの人は立派だなと思う「大人」は、よく耳を使う人だと気が付いた。そういう賢人に学ぶことだ。

 私が学ぶ対象の賢人として内田樹、山極壽一の両氏の名を挙げたい。内田氏は、――大人としての知性はどうしたら身につきますか、の問いに、「もののわかった大人をメンターとして私淑することでしょう。僕の場合でしたら、鶴見俊輔養老孟司司馬遼太郎といった人たちの著作を読んで、成熟した大人というのは、こんなふうにものを考えるのかということを学びました」と述べている(文春オンライン、9/23)。

 司馬遼太郎の歴史記述について内田氏は「……敵味方に区別して、扱いを変えるということを司馬はしませんでした。日本の官製の歴史は戊辰・西南の敗者たちを久しく国賊として遇してきましたけれど、司馬は坂本龍馬大村益次郎土方歳三西郷隆盛も、等しく敬意と愛情をこめて描きました。……それはこの内戦で生まれた分断を癒して国民的和解の物語を立ち上げることが日本のために必須であると司馬が信じていたからだと思います」 

 敵味方に区別しない、分断を癒す。内田氏は、同じ理由で「アメリカ文学の父」と呼ばれるマーク・トウェインの名を挙げている。南北戦争後の『ハックルベリー・フィンの冒険』は、『トム・ソーヤーの冒険』とともに私も何度も読んだ。

 現代的な「成熟した大人」として発言を注視している人が二人いる。いずれもジャーナリストであるが、青木理安田菜津紀の両氏である。老熟した賢人だけを学ぶ対象にしてはいけない。さまざまな現実課題に常に向き合おうとしている若手の論者からも学べることが多い。すぐそこの未来に責任を果たそうとしている姿勢が清々しく、言うことと為すことの両輪を備えているからだ。

 世間の多くの人々から教えられることも、とても多い。新聞の「声」の欄は、毎朝欠かさずすべてに目を通す。巷にも多くの賢人がいる。80代90代の先輩方の声だけでなく、10代20代の若者の意見や「私はこうしたいと思う」の姿勢に、自らを正す機会を与えられる。悲痛な経験から過去を学び、人々の想いと行動に共感し、さまざまな訴えに「知ること」の喜びを覚える。「聞くこと、知ること」の経験を積み増し続ける自分でありたいと思う。日々、否応なしに自分が未熟であることを知るが故である。