農と暮らしの技(7) 橇 (そり) で運ぶ(その一)

 農は物を運ぶ仕事がとても多い。堆肥や肥料、さまざまな道具、そして収穫物。どれも重い物ばかりだ。今は軽トラックをはじめ、さまざまな運搬車があるが、昔はどうしていたのか。時には家畜に背負わせたり荷車を引かせたりしたが、人が背負い、後にはリヤカーを引くなど、人力で運ぶことが多かった。

 私が生まれ育った雪国の冬はそれもむずかしい。冬は荷車やリヤカーは使えなかったし、深い雪の中では背負って運ぶことも容易ではなかった。雪国特有の運搬手段は橇 (そり) だった。

山橇(やまぞり):肩にかける引き綱で引く組み立て式の橇。使い終わった春には解体して収納した。丈夫な木組みで、こうした橇を作る職人の存在も必須だったのが歴史的な農村の姿である。(写真が残っていないので、うる覚えで書いた)

 物を運ぶ橇には3種類があった。山から薪 (たきぎ) を運び下ろす「山橇」と、堆肥を運ぶ「肥引き橇」があった。山橇 (図) は長さ240cm、幅100cmくらいで、橇足の幅は11cmだったと兄が覚えていた。橇足には下にトタンが張ってあってよく滑った。春の彼岸を過ぎるころになると積雪は凍みて固くなる。前年の晩秋に切り倒して山に積んであった薪を、山橇で家の近くまで運ぶのだ。

 この薪運び、いつも父は兄を連れて行った。後ろから橇を押す力が必要だったからだ。ある年、私は1~2度だけ (?) 兄と一緒に連れて行ってもらったことがある。重い薪を積んで斜面をすべり降りる時はかなり危険だ。スピードを制御するのに「タガ」という「輪にした太くて丈夫な綱」を橇足に引っ掛けるとブレーキが効く。たまたま私が付いていった時に、このタガが切れてしまった。「飛び降りろー!」という父の叫びと、その後猛スピードで斜面を落ちていった橇と父の姿を、その場面だけ切り取ったように覚えている。橇は壊れたのではなかったか。年少時の、断片的だが劇的な記憶である。

 3月末、薪運びより前に堆肥運びの作業があった。「肥引き橇」は山橇に造りは似ていたがやや小型で、長さ200cm弱、幅65cmくらい。橇足の幅は8~9cmだったと兄はいう。根曲がり竹を編んだ75cm幅×100cm長の荷台が取りつけられてあって、牛糞などで作った堆肥を田んぼに運んだのだ。

 先に田んぼの場所を確認しないといけない。積雪が多いと雪の上からでは自家の田んぼの位置が分からない。他家の田んぼに運ぶわけにはいかない。彼岸過ぎになって雪消えが進むと田んぼの位置とその形がようやく見えてくる。スコップを持って行って、まだ1m以上もある雪にまず穴を掘る。堆肥を落とし込む穴だ。穴は径1mくらいで、下部を広く上の方を狭くして掘り上げた。

 堆肥運びは、私も何度も橇の後を棒で押して父を手伝った。帰りが下り坂なら子どもは乗って帰れたが、行きは重労働だった。事前の雪穴掘りも何度もやった。兄や私だけではない。地域の子どもたちは皆、その時代に同じ経験をしたのだ。昭和30~40年ころ (1960年代) までのことだ。