農と暮らしの技(7) 橇 (そり) で運ぶ(その二)

 春の雪消え直後は、農家はとても忙しい。待ってましたとばかりに田畑の作付け作業が一斉に始まるのだ。だから、少しでも早く雪を消す工夫が昔からあった。

 田んぼに堆肥を落とし込む穴を掘るついでに、下の田土をすくって周囲に撒くことがあった。黒い色が太陽の熱を吸収して雪消えに効果があると子どもでも知っていた。家の近くに作る苗代の位置には、特に早くから雪上に土を撒いて消雪した。苗代を早くきちんと準備できるかどうかは、その年の作況に関わったことだろう。

 さて、3つ目の橇は「機械橇 (きかいぞり)」と呼ばれていた。うる覚えだが、幅50~60cm、長さ140~150cmくらいではなかっただろうか。堅い角材で丈夫に組まれた荷台は金具で補強されており、橇足は下に鉄板を履いていた。角材の柄に丸木の引き手が付いていて、荷台上に折りたためるようになっていた。

機械橇で郵便物を運ぶ、郷里に近い十日町郵便局員たち(いつごろの光景だろう)

 機械橇はさまざまな用途に用いられたようである。昔は山で焼いた炭を町場に運べば、帰りには生活用品を積んで帰っただろう。冬場の日常的な物の運送はほとんどこの橇の役目だった。病人やケガ人も、この機械橇に乗せて町医まで運んだ。他の地では馬橇もあったというが、豪雪地帯では馬も動けなくなる。人が引く機械橇の出番は多かったに違いない。家々の常備品だった。

 子どもが中学生くらいになると悪戯も大胆だった。機械橇をこっそり持ち出して来て数人で山に運び、山上から滑り降りて遊ぶなどした。もし壊しでもしたら、その後のくらしに大いに困っただろう。見つかれば大目玉をくらったにちがいないが、見た目にもとても堅牢な造りだと子どもにも分かっていた。

 橇の出番は、その後は徐々に減っていった。集落をつなぐ幹線道路の舗装化が進み、冬季の除雪システムが整うにつれて、人々はバスやトラックの利用が増えていった。それでも大雪の年は、大寒の前後にバスが動かないこともあった。人々は歩いて用を足し、一時また機械橇を持ち出すこともあったように思う。

 中学3年生の冬、高校進学前に歯の治療をしようと町の歯科医まで数回通ったことがある。2月から3月のころだったが、あいにくバスの運行が止まってしまった。終業は午後4時ころだったろうか、下の町まで雪道を歩くこと1時間あまり。歯の治療が終わって家までは上りの雪道を2時間以上。時に吹雪くこともあったが、途中に外灯もほとんどない時代。一人で暗い雪道を歩くことは少し不安でもあったが、15歳の年齢と歩くことの日常に慣れたくらしが難なくそれを支えた。

 関東のくらしが早や50年にもなると、雪国にはもう戻れない。体力気力とともに「雪国でくらす能力」がとうに失せてしまった。