農と暮らしの技(5) 箱膳

 幼少時の生家のくらしを思い出すと、その後60年余の日本農業と農村の激変がよく分かる。意識すべきは、農村変貌の行き着く先が未来人の生存を脅かすようであってはならない、ということ。「ほんのちょっと昔の農とくらし」を掘り起こす試みの真意は、その激変の裏で失ってしまったものが大きすぎたのではないかとの懸念にある。安易に投げ捨ててしまった文化、農とくらしの技に、実は未来人を救う何かがあったのではないか。

 1960年前後を境にして農村の風景がガラガラと変わっていったが、その只中で「自分の身に起こっていた」ことを、成人後に身に付けた第三者的な目で再現してみようと思った。それは単なる懐古ではない。

 1959年 (昭和34年) まで、生家は箱膳で食事していた。箱膳というのは、一人分の食器 (飯椀、汁椀、小皿、箸など) を収納する縦横30cm、高さ20cmくらいの木箱で、上蓋をひっくり返すとお膳になった。江戸期から明治、大正のころまで、武家から庶民にいたるまで使われていた、と各地の歴史民俗資料館などが紹介しているが、農村部ではもっと後まで箱膳を使うくらしだった。

 当時は、農業改良普及員が農協と連携して農業生産の大改良を開始し、生活改良普及員が農家のくらしを大改造すべく奮闘していた。トイレ、風呂、台所の近代化で衛生改善、農村女性の負担軽減などが進められた。箱膳を、家族が囲む食卓式に変える動きもその一環だったのだろう。わが家は父が「丸いちゃぶ台」を買ってきて箱膳は廃された。私は5歳だったが明瞭に覚えている。テレビや耕耘機などが入るほんの数年前のことだった。

 山田洋二監督の「たそがれ清兵衛」という映画に、囲炉裏を囲んで家族が食事するシーンがある。箱膳で食べている。清兵衛と家族の髪が髷 (まげ) で、着物を着ている以外は当時のわが家にそっくりで、頬が緩んでしまった。昭和30年代の農村と、江戸期のくらしの様子が映像で重なるのだ。そんな私の経験を、現代の若い人に話してももはや伝わらない。

 箱膳で食べ終わった後、飯椀に白湯かお茶を注ぎ、箸でつまんだ漬物などで椀の内側をぬぐって湯を飲み、そのまま箱の中に食器を伏せて仕舞う。家族の箱膳を台所の一画に積み重ねておけば、それが合理的な?収納棚代わりだった。数百年もの間、これが日本人のくらし方だったが、一番の問題は非衛生的だったこと。この文化は廃されることが宿命だった。

 箱膳が懐かしい訳ではない。その後の激変の起点だったのではないか、と思うのだ。それまでの農の技、くらしの技が次々と姿を消した。箱膳のように消えて良かったものもあるが、消してはならなかったものがたくさんあった筈だ。