有機農家を育てる(1)  国を超える本来の農

 私が、化成肥料と化学合成農薬を使う慣行農法に決別し、有機農法の実践者になったのは1994年だった。

 鯉淵学園農業栄養専門学校の教員だったので、農場実習や実験授業では、無農薬・有機肥料の栽培技術指導に転換した。以来30年、有機農業技術のスペシャリストをめざして、さまざまに試行錯誤を重ねることになった。

 

 有機農業が未来の農業のあるべき姿だろうと、そう思ったきっかけの一つは青年海外協力隊員の技術補完研修を担当したことだった。

 JICA(当時は国際協力事業団、現国際協力機構青年海外協力隊(20~39歳)の農業隊員に応募して合格はしたものの、専門知識と実技に不足がある者を対象に、派遣前に行う1年間の研修を鯉淵学園が委託され、1993年から毎年5~6名の青年がやってきた。彼らの職種は「野菜栽培指導」で派遣国もすでに決まっており、赴任先の地域や事業体(町村の農業指導部署、NGO農業支援地域事務所など)からの要請は、大半が「化学肥料や農薬、動力機械などを使わなくてもできる栽培の指導」だった。

 1970年代のころから有機農家の存在は知っていた。有機農業になんとなく興味を覚えていたが、非効率性や「草だらけ」といった農業界の偏見にも毒されていて、自分のとるべき方向とはまだ考えていなかった。

 ところが、協力隊に寄せられる途上国からの期待が、ほぼ「有機農業」だったことが私の目を開かせた。途上国のへき地零細農業の実態を知るにつけ、何のことはない、私が幼児から少年時代に体験していた日本の農村にそっくりだったのである。

 私が生まれ育った家は水田5反、畑5反ほどの農家で、家族と隣近所が互いに協力し合って行う昔ながらの有畜複合農業だった。5歳上の兄には及ばなかったものの、幼児からそれなりに農作業や日々のくらしの作業あれこれに参加していた。その原体験が協力隊の研修にとても役立った。

 それだけではない。現代農業技術の先進性に目を奪われて、本来の農の原点を見失いかけていた自分を取り戻せた気がしたのである。国や地域、経済発展のレベルを超えて「有機農業」こそが農の本来の姿なのであり、その普遍性はむしろ未来に再評価されるのではないか。ほとんど直観だったが、確信的にそう思った。