この国のかたち(13) 新農業基本法と戦時食糧法

 政府が今国会で改定をめざす新農業基本法食料・農業・農村基本法」には、食料自給率向上が明記されず、国策としては放棄される内容になっている。国民の食料確保を、政府の義務ではなく「農業者その他の関係者が取り組むべき課題」として農業者の責任に落とし込む。「もぬけの殻」法だ (新聞『農民』2/26) と強く批判されているが、当然である。

 私がさらに問題だと思うのは、法案に「新規就農者支援」という言葉がないことだ。人に投資をすることを頑強に拒み、ロボットやドローン、AI技術頼みの生産を進める「スマート農業促進法」を進めようとしている。地域社会とそこに住む人々へのまなざしがない。これは、農外産業のもうけを優先し、農村現場の人々の努力とくらしをないがしろにする政治的意図によるものである。

 2024年度の新規就農支援予算はわずか121億円。防衛省予算 (軍事予算) にある大型輸送ヘリ1機216億円のたった半分 (同上『農民』)。農水省自身が「今後20年間で農の担い手が30万人 (現状の4分の1) に減る」といいながら、その抜本的対策を取ろうとしないのはなぜか。

 2月5日のこのブログ (新農家100万戸育成計画その五「1兆円以上の農家育成予算を」) で、「農水省は花農家や畜産農家穀物やイモ類を強制的に植え付けさせる法律を」準備していると書いた。その法案は「食料供給困難事態対策法」という。「戦時食糧法」のあだ名がつけられたが、言い得ている。

 困難事態とは何か。ロシアによるウクライナ侵攻によって国際的な食料流通に大混乱が起こった。国民食料の3分の2を輸入に頼っている日本は、世界のどこかで戦乱や大規模災害が起これば、すぐに大きな影響を受ける。例えば、中国との貿易が2カ月停止しただけでも極度の食料危機が起こると予測されている。だからこそ平時から安定して国内調達できるよう自給率の向上が必要なのだ。小学生でもわかる理屈なのに、それを実行しない政府とは何なのか。

 アメリカなどの余剰米を買い上げるミニマムアクセス米 (MA米) 77万トン (2023年) は、国内生産量717万トンの10%超である。稲作農家の2022年平均所得はわずか1万円 (畑作222万円、酪農48万円の赤字) である。これでは稲作は続けられないと離農が進むとみられ、対策しなければ食料危機はすぐに現実になるだろう。MA米が国内稲作を圧迫し、米価引き下げの要因にもなった。MA米は貿易上の義務ではない。輸入をやめて国内稲作の振興に注力すべきである。

 平地の少ない中山間地でスマート農業が今以上の生産性を上げられるはずがないし、「農の仕事は農産物生産だけではない」ことへの理解がまったくない。農民 (人) が住まない農村という幽霊社会の登場を許してはならない。人への投資が待ったなしである。

農と暮らしの技(7) 橇 (そり) で運ぶ(その二)

 春の雪消え直後は、農家はとても忙しい。待ってましたとばかりに田畑の作付け作業が一斉に始まるのだ。だから、少しでも早く雪を消す工夫が昔からあった。

 田んぼに堆肥を落とし込む穴を掘るついでに、下の田土をすくって周囲に撒くことがあった。黒い色が太陽の熱を吸収して雪消えに効果があると子どもでも知っていた。家の近くに作る苗代の位置には、特に早くから雪上に土を撒いて消雪した。苗代を早くきちんと準備できるかどうかは、その年の作況に関わったことだろう。

 さて、3つ目の橇は「機械橇 (きかいぞり)」と呼ばれていた。うる覚えだが、幅50~60cm、長さ140~150cmくらいではなかっただろうか。堅い角材で丈夫に組まれた荷台は金具で補強されており、橇足は下に鉄板を履いていた。角材の柄に丸木の引き手が付いていて、荷台上に折りたためるようになっていた。

機械橇で郵便物を運ぶ、郷里に近い十日町郵便局員たち(いつごろの光景だろう)

 機械橇はさまざまな用途に用いられたようである。昔は山で焼いた炭を町場に運べば、帰りには生活用品を積んで帰っただろう。冬場の日常的な物の運送はほとんどこの橇の役目だった。病人やケガ人も、この機械橇に乗せて町医まで運んだ。他の地では馬橇もあったというが、豪雪地帯では馬も動けなくなる。人が引く機械橇の出番は多かったに違いない。家々の常備品だった。

 子どもが中学生くらいになると悪戯も大胆だった。機械橇をこっそり持ち出して来て数人で山に運び、山上から滑り降りて遊ぶなどした。もし壊しでもしたら、その後のくらしに大いに困っただろう。見つかれば大目玉をくらったにちがいないが、見た目にもとても堅牢な造りだと子どもにも分かっていた。

 橇の出番は、その後は徐々に減っていった。集落をつなぐ幹線道路の舗装化が進み、冬季の除雪システムが整うにつれて、人々はバスやトラックの利用が増えていった。それでも大雪の年は、大寒の前後にバスが動かないこともあった。人々は歩いて用を足し、一時また機械橇を持ち出すこともあったように思う。

 中学3年生の冬、高校進学前に歯の治療をしようと町の歯科医まで数回通ったことがある。2月から3月のころだったが、あいにくバスの運行が止まってしまった。終業は午後4時ころだったろうか、下の町まで雪道を歩くこと1時間あまり。歯の治療が終わって家までは上りの雪道を2時間以上。時に吹雪くこともあったが、途中に外灯もほとんどない時代。一人で暗い雪道を歩くことは少し不安でもあったが、15歳の年齢と歩くことの日常に慣れたくらしが難なくそれを支えた。

 関東のくらしが早や50年にもなると、雪国にはもう戻れない。体力気力とともに「雪国でくらす能力」がとうに失せてしまった。

農と暮らしの技(7) 橇 (そり) で運ぶ(その一)

 農は物を運ぶ仕事がとても多い。堆肥や肥料、さまざまな道具、そして収穫物。どれも重い物ばかりだ。今は軽トラックをはじめ、さまざまな運搬車があるが、昔はどうしていたのか。時には家畜に背負わせたり荷車を引かせたりしたが、人が背負い、後にはリヤカーを引くなど、人力で運ぶことが多かった。

 私が生まれ育った雪国の冬はそれもむずかしい。冬は荷車やリヤカーは使えなかったし、深い雪の中では背負って運ぶことも容易ではなかった。雪国特有の運搬手段は橇 (そり) だった。

山橇(やまぞり):肩にかける引き綱で引く組み立て式の橇。使い終わった春には解体して収納した。丈夫な木組みで、こうした橇を作る職人の存在も必須だったのが歴史的な農村の姿である。(写真が残っていないので、うる覚えで書いた)

 物を運ぶ橇には3種類があった。山から薪 (たきぎ) を運び下ろす「山橇」と、堆肥を運ぶ「肥引き橇」があった。山橇 (図) は長さ240cm、幅100cmくらいで、橇足の幅は11cmだったと兄が覚えていた。橇足には下にトタンが張ってあってよく滑った。春の彼岸を過ぎるころになると積雪は凍みて固くなる。前年の晩秋に切り倒して山に積んであった薪を、山橇で家の近くまで運ぶのだ。

 この薪運び、いつも父は兄を連れて行った。後ろから橇を押す力が必要だったからだ。ある年、私は1~2度だけ (?) 兄と一緒に連れて行ってもらったことがある。重い薪を積んで斜面をすべり降りる時はかなり危険だ。スピードを制御するのに「タガ」という「輪にした太くて丈夫な綱」を橇足に引っ掛けるとブレーキが効く。たまたま私が付いていった時に、このタガが切れてしまった。「飛び降りろー!」という父の叫びと、その後猛スピードで斜面を落ちていった橇と父の姿を、その場面だけ切り取ったように覚えている。橇は壊れたのではなかったか。年少時の、断片的だが劇的な記憶である。

 3月末、薪運びより前に堆肥運びの作業があった。「肥引き橇」は山橇に造りは似ていたがやや小型で、長さ200cm弱、幅65cmくらい。橇足の幅は8~9cmだったと兄はいう。根曲がり竹を編んだ75cm幅×100cm長の荷台が取りつけられてあって、牛糞などで作った堆肥を田んぼに運んだのだ。

 先に田んぼの場所を確認しないといけない。積雪が多いと雪の上からでは自家の田んぼの位置が分からない。他家の田んぼに運ぶわけにはいかない。彼岸過ぎになって雪消えが進むと田んぼの位置とその形がようやく見えてくる。スコップを持って行って、まだ1m以上もある雪にまず穴を掘る。堆肥を落とし込む穴だ。穴は径1mくらいで、下部を広く上の方を狭くして掘り上げた。

 堆肥運びは、私も何度も橇の後を棒で押して父を手伝った。帰りが下り坂なら子どもは乗って帰れたが、行きは重労働だった。事前の雪穴掘りも何度もやった。兄や私だけではない。地域の子どもたちは皆、その時代に同じ経験をしたのだ。昭和30~40年ころ (1960年代) までのことだ。

農と暮らしの技(6) 工芸作物

 25年ぶりに和室の畳表を取り替えた。新しい畳は青々としていい香りがする。若い職人さんが新しい畳表の生産者を教えてくれた。にこやかな壮年農家夫婦の写真と生産者情報が記されたカードを渡されて、今はこんなにていねいな対応をしてくれるのだと嬉しくもあり感心もした。熊本八代の農家がい草栽培から畳表の製造まで手掛ける上質な製品だとのことだった。

 農業が生産するのは食べ物だけではない。イ草が稲わらとともに畳に加工されるように、生活資材の原料となるさまざまな工芸作物の生産にも携っている。私たちは日々、そうした生活資材に接しながら、その出所をほとんど意識せずにくらしているが、時には思いを寄せてみたいものだ。

 どんなものがあるか(あるいは過去にどんなものがあったのだろうか)。

▶繊維料作物、紙料作物の棉(わた→綿布)、麻(→麻布)、い草(→畳表、ござ)、棕櫚(しゅろ→シュロ縄)、楮(こうぞ→和紙)、トロロアオイ(→和紙の糊料)、ホウキモロコシ(→箒)、桑(くわ→養蚕→絹布)など

▶油料、蝋(ロウ)料作物の菜種(なたね)、荏胡麻(えごま)、胡麻(ごま)、オリーブ、椿(つばき)、櫨(はぜ→和ろうそく)など

▶樹脂料作物の漆(うるし→漆器)、ゴムなど

▶染料作物の藍(あい)、鬱金(うこん)、紅花(べにばな)など

・・・・このほか、食料作物に準ずる工芸作物が各種ある。

▶調味料作物のサトウキビ、甜菜(てんさい、ビート)、薄荷(はっか)、山葵(わさび)など

▶嗜好料作物のタバコ、チクル(→ガム)、茶、ホップ(→ビール苦みと香)、コーヒー、カカオ等

▶その他芳香油料作物(ハーブ類、バニラ、バラ等)、タンニン料作物(柿、栗)、薬料作物(薬用人参、芍薬、銀杏葉、黄連、大黄など)等々

 トロロアオイは野菜のオクラに近縁の作物である。この植物体の粘液(ネリ)が和紙や蕎麦などのつなぎに使われる。茨城県のある農村にトロロアオイの生産者が10名ほどいると聞いて現地を訪問したことがある。日本各地の和紙産地に供給しているが、みな高齢化して栽培を止めたがっているという。しかし後継者が不在で近い将来に産地は消滅するだろう、と農協の担当者は困惑していた。

 トロロアオイの生産が行き詰まれば、和紙の存続が危ぶまれる要因になるという。これはほんの一例である。その他の工芸作物も多くが衰退に向かっている。こうした農の衰えは、同時に伝統文化の危機と捉えるべきである。代替策は海外からの原料輸入だが、こうした安直な対策が人から技術を奪い、農村の機能性を損なってしまった。

 江戸時代後期、地方の各藩は財政悪化対策として養蚕用の桑、棉(綿花)、青苧(あおそ、カラムシ→布、縄、漁網)、漆(うるし)、櫨(はぜ→ロウソク)など工芸作物の栽培を農家に奨励した歴史がある。工芸作物の栽培と加工技術の発達が、農村の高機能性と農家の地位向上にささやかながら貢献したと考えられる。今、その歴史からあらためて学ぶべきことがあるのではないか。

自然共生の農と食を未来人の手に(4) NPO農業のすすめ

 有機農家を育てる研修農場をNPO法人として運営した経験は貴重だった。12年間で20余組の新農家を送り出すことができたのは、多くの人の参加と支援があったからだ。個人活動ではとても無理だった。新農家育成もさることながら、その過程で数千名に及ぶ人々がこのNPO農場を利用してくれたのだが、これが実は最大の成果だったと思う。

開かれた農園、公共の福祉に貢献する農園、参加型農園に期待する市民は多い

 農産物生産を担うのは、今後も個人農家や法人経営が主力であり続けるだろう。だが、そうじゃない農の形があってもいいんじゃないか。現に福祉施設が運営する農場、幼稚園や保育園付属の農園、市民参加の体験農園、農家の水田や果樹園で行う「オーナー制」など、すでに多彩な取り組みがある。

 広範な市民が参加しやすい農のあり方として、NPO農園を提案したい。

 100万戸の新農家育成をなんとしても実現させないといけないが、そうした新規就農者にもいずれ継承者が必要になる。結局、家族以外に継承できる営農のモデルが必要になる。NPO農園を提案するのは、スタッフ間の継承で農業経営の連続性を担保できるのではないかと考えるからだ。

 NPO農園の第一のねらいは「スタッフの所得確保」だ。第二が農の「持続性」。そして第三の意味づけが「公共性」である。農はもともと儲けるだけの仕事ではない。地域社会の維持、防災、道路や河川などのインフラ管理、自然環境の手入れなど、農家は手間賃を期待できない公共的な仕事のなんと多くを担ってきたことか。こうした農本来の機能を思えば、NPO運営はとても理にかなっていると思うのだが、いかがだろう。

 中山間地域の離農が著しい。過疎化に拍車がかかり、いずれ自治体の消滅につながるだろうと悲観されている。農林水産業の衰退がその根源である。そうした過疎地の農を維持する方策として、NPO運営が役立たないだろうか。高齢化した地域住民が、短時間、軽労働でも個別の条件に合わせて参画できる集団農の営みとして構想してみてはどうだろう。

 周辺小都市の市民などを巻き込んで参加と支援の輪を広げ、子どもぐるみで体験の場に、山村や海浜の里を守り、自然環境の手入れにも関わる。未来人の食と環境を保障する大事な手立ての一つとして、こうした市民参加型の農の開発をみなで考えてみたいものだ。

 日本中にNPO農業を普及させてもいいのではないか、ずっと前からそんな風に思っていたのだ。

徒然に(8) 新聞を読む

 新聞は紙であり印刷された活字であるが、単に日々の最新情報を提供してくれるだけの「物」ではない。国内のみならず世界各地の人々のくらしや生き様を知り、そうした人々の声が聴ける「開かれた窓」である。いい話もあればつらい記事もある。毎朝、人々の生き様や声に接して新たな学びを得ているし、涙することもしばしばだ。

 

 今日の朝日「声Voice」から一つ原文のまま転載してみよう。

 教え子の「鬼さん外は寒いから」 投稿者は神奈川県74歳の人 

 ▶20年ほど前、養護学校の高等部に勤務していた時のことです。受け持ちのクラスに、染色体に関係するルビンシュタイン・テイビ症候群の男子生徒がいました。▶性格は明るく優しくて、身のこなしはぎこちないながらも、サッカーボールを追い回したり、イチローのまねをしたりして楽しむことが好きでした。彼のそばにいるだけで誰もが愉快な気分になったものです。▶2月4日の朝、その生徒の家からの連絡帳のほんの数行に、私は思わず涙してしまいました。「昨晩はわが家恒例の豆まきをしました。息子は大きな声で『鬼は外、福は内』と繰り返しながら家中まいて回りましたが、最後に小さな声でそっとささやきました。『でも鬼さん、外は寒いから入ってきていいよ』と」▶私は今でも思います。人類がみな彼のようだったら、この世界は争いもなく、みんなが明るく楽しく暮らせる世であり続けただろうにと。

 こいう声を目にするたびに胸がいっぱいになり涙を誘われる老境を、私は素直に受け入れることにした。心が洗われることに、日々喜びを感じている。

 

 若い人に紙の新聞を読むことを勧めたい。

 だがこの経験と喜びを、どのように伝えたらいいのかを日々悩む毎日でもある。

自然共生の農と食を未来人の手に(3) 有機農家30万戸育成計画(その二、民間の農学校に有機指導者養成所を)

 道府県農業大学校と教育目標を共有する民間の農学校が全国に5校ある。東京にあるのはAFJ日本農業経営大学校であるが、実習教育を行っていない。もう一つ岡山県にあるのは中国四国酪農大学校である。

 他の3校は長野県と茨城県にある。それぞれ広大な実習農場を持っており、長い歴史と固有の教育理念を持つ有為な農学校であったが、3校とも廃校寸前の厳しい現実にさらされている。道府県農業大学校と学生募集で競合の末、入学者が激減して経営がままならなくなったのだ。そもそも道府県立校と学生負担金に倍以上の開きがあり、民間校は断然不利だった。

 かつては農業者養成教育の要と位置付けられ、農水省を通じて適正な補助金があって教員陣容もなんとか保てていた。ところが10数年前、3校とも補助金支給を完全に断たれ、必要な教育資源を維持できなくなっている。

 この貴重な教育の場を蘇らせ、再活用してはどうか。

 3校に「有機農業スペシャリスト養成所」を設置するのだ。1年制の実践的な宿泊研修を行う施設にする。全都道府県から所属の農業改良普及指導員1~2名を選抜してこの養成所に派遣するのだ。3校には学生寮があり、広大な実習農場があるからすぐに機能する。西日本に養成所が必要な場合は、島根県農林大学校に協力を仰ぐ手もある。

 ポイントは、その教育指導に誰があたるかだ。有機農業指導できるスペシャリストが現状はほとんどいないので、当面の5~6年は優秀な有機農家に委託して実技指導してもらうしかない。いずれ有機指導者が育ってくれば、専任の指導教員を置けるようになるだろう。講義は有機農業学会の協力を仰ぎ、全国から大学教員や研究者を講師に迎えれば整うだろう。

 研修者は普及指導員に限定する必要はない。全国の農協も近々に有機スペシャリストが必要になる。農協からの派遣も受け入れる。農業法人等の民間団体からの派遣も想定できる。

 設置資金は、前述の3,400億円のうちから拠出する。3農学校の教育環境を整備し直すこと、当面の指導を委託する有機農家の人件費や講師料等を準備すること、都道府県や農協への研修者派遣費用補助にあてるなどだ。数十億円規模でできるのではないか。有機農業スペシャリスト養成は、みどり戦略にある「2050年までに25%、100万ha化」のためには必須の事業である。

 この養成所は、有機農業の理念と技術をしっかりと体得することを教育目標にする。安易に「もうかる農業」を旗印にするような指導者養成ではなく、「地域と地球の環境を守り、豊かな食と健康をあまねく国民に保障する」農の根本理念を学ぶ場所にしなくてはならない。とかく忘れがちな教育の理想を見失わないことが肝要である。

 私はかつて、鯉淵学園農業栄養専門学校の教員だった。民間農学校の柔軟な教育実践力、「行学一致」とか「師弟同行」などの教育の考え方が、指導的農家の元で行う研修にとても近似の教育力を持っていると知っている。活用しない手はない。

日本農業実践学園 https://nnjg.ac.jp

▶鯉淵学園農業栄養専門学校 http://www.koibuchi.ac.jp/

八ヶ岳中央農業実践大学校 http://www.yatsunou.jp/