期待される農へ(1) 農業協同組合(その三、農家育成活動)

 農業協同組合の現状に問題点は多々あるが、その一つが人づくり行動の弱さである。農家が激減に次ぐ激減の最中にあって、農家数の維持にさえ積極的に動いているようには見えない。生産者の減少は農産物取扱量を減らすばかりでなく、購買事業、信用事業など、農協が取り組むあらゆる事業のシェアが縮むことにつながってしまう。さらに本質的な悪影響は、農村そのものの崩壊につながるおそれである。農協が生まれた原点に立ち返るべき事態であることを忘れてもらっては困る。

 人づくりに25年以上も取り組んでいる小さな農協の例が、私の身近なところに存在する。茨城県石岡市(旧八郷町)にある「やさと農業協同組合」だ。1997年に有機栽培部会を発足させると、すぐに新規就農者の育成が課題になって研修農場「夢ファーム」を開設した。1999年から毎年1組の夫婦を受け入れて2年間の研修を施す農家育成活動を始めたのだ。研修修了者は有機栽培部会に参加し、いずれも地域の有機農業発展を担う有力な存在に育っている。

 2017年には石岡市が第2研修農場となる「朝日里山ファーム」を開き、研修修了者は夢ファームと同様に農協の有機栽培部会に参加している。この第2研修農場は、市の委託を受けたNPOが運営を任されているが、その代表はかつて農協に有機栽培部会を起ち上げ、夢ファームの生みの親でもある柴山進さん。人づくりの重要性を誰よりも強く認識していた人である。

 これまで25年間の有機農業振興と担い手育成活動が高く評価されて、昨年、日本農業賞「集団組織の部、大賞」を受賞した。その評価はしごく当然であるが、裏を返せば、いみじくも、このような農協の人づくり活動が全国的にきわめて希少であることを印象付けてしまった、ともいえる。

 農家の激減を座視していることは許されない。農家激減をくい止め、より積極的に農家育成を行うことは、本来は国策として大きな予算を投じて行うべきであるが、農村現場が自らの問題として自律的に農家育成を行う行動も欠いてはならない。それを組織的に行うべきは本来、農協の任務であるはずだ。農協が動かなかったら農村に未来はない、と言ってもいい。

 やさと農協の有機栽培部会とは、私もいろいろ縁がある。夢ファーム第1期研修生が就農したばかりのころ、同時期に有機JAS認証制度がスタートした。私は有機JAS認証機関の検査員として有機部会員の畑に出入りしたし、認証を受けるために必須の「行程管理者講習」の講師としても有機部会員と接していた。その後、私が開設した研修農場「あした有機農園」の卒塾者のうち2名が、やさと農協有機部会員に加わって活動している。彼らの意気は高い。

 やさと農協にならい、全国の農協で人づくりを今すぐに、と願って止まない。

期待される農へ(1) 農業協同組合(その二)

 協同組合の存在意義が世間に伝わらなくなってきた、と前話で書いたが、それは農協職員自体の理解についても言えるかもしれない。かつての農協職員は、その多くが農家生まれの人々だった。その時代は、職員が家に戻れば農家(組合員)の家族として農協の恩恵と意義をストレートに理解できた。しかし、今の農協のスタッフはおそらく大半が非農家出身者である。協同組合の意義は、就職してから研修で教わる内容になったのだ。実感は薄いだろう。一般私企業と協同組合の本質的な違いをきちんと理解してもらうためには、何が必要か。

 協同組合の定義、協同組合原則というものがある。1995年、国際協同組合同盟(ICA)の100周年大会で決められたものだという。

<協同組合の定義>

 協同組合は、共同で所有し民主的に管理する事業体を通じ、共通の経済的・社会的・文化的ニーズと願いを満たすために自発的に手を結んだ人々の自治的な組織である。

<協同組合原則>

第1原則 自発的で開かれた組合員組織 ― 非差別、意志ある全ての人々に開放

第2原則 組合員による民主的管理 ― 意思決定への参加、一人一票の議決権

第3原則 組合員の経済的参加 ― 公平な出資、協同財産、利用高に応じた組合員還元

第4原則 自治と自立 ― 自治的な自助組織、協同組合の自主性

第5原則 教育、訓練および広報 ― 関係者の教育訓練、一般の人々に協同組合運動の意義を広報

第6原則 協同組合間協同 ― ローカル、ナショナル、リージョナル、インターナショナルな組織協同

第7原則 コミュニティへの関与 ― コミュニティの持続可能な発展のための活動

 第1から第4までは原則中の原則である。近年は、第4原則が政治に翻弄されて農の自律的発展を損ねている。農外産業の要請を優先して農からの搾取を黙認しているのだ。

 農協側の課題として、協同組合の意義をより効果的に運用するために第5から第7の原則を日常運営の中でしっかりと行動に表しているかどうか、がある。関係者の教育訓練、農の人づくり、市民に向けた広報のあり方、地域社会への関与の仕方、等々。課題はとても多いが、すべてその都度、原則に立ち戻って議論し、行動することが要諦だろう。

期待される農へ(1) 農業協同組合(その一)

 農家生まれの小せがれは、農業協同組合(農協)なくしては人並みの教育を受けられなかった。農協様様だった。農産物の販売はすべて農協頼み、売り上げは農協の口座に預け、生産用の資材だけでなく生活用品まで共同購入ができて、ほぼすべて口座引き落としで決済できた。残高マイナスでもとりあえず次年度の農業生産になんの支障もなかった。

 1960年代、私の小学生時代には耕運機が入り、テレビ、ガス炊飯器、電気洗濯機、風呂の灯油ボイラー、そしてトラック導入へと進み、電気代、燃料代などと併せ現金支出がうなぎ上りに増えていった。世間は高度経済成長期に突入し、農家のくらしも勤労者世帯に追い付け追い越せと夢がふくらむ時代で、その夢を叶えてくれそうな仕掛けが農協だったのだ。誰の目にもそう見えた。そして「ある程度までは」、確かにそれを現実にしてくれた。農協なくして日本農業は成立しなかった。

 その農協は、いまやかなり様相を変えてしまった。一番大きな変化は、農協を「JA」と呼称するようになったことだろう。茨城の瓜連町長、ひたちなか農協専務などを務め、『農協に明日はあるか』(2006、日本経済評論社)などの著作がある先﨑千尋さんは、常日頃「JAとは呼びたくない。農協と呼ぶべきだ」と言っている。まったく同感である。

 農協をJAと呼ぶようになってから、農協の本質、使命が忘れ去られて空中分解しそうになっている、と思う。「協同組合」の意味が世間にまったく伝わらなくなった。農外の人々、特に若い人たちにほとんど理解されていない。「会社の形の一つなのかと思った」と言われて愕然とする。さもあらん、農協(ノーキョー)の発音だって、関係ない人には何のことか分からないだろう。省略しないで「農業協同組合」と正しく言葉にすべきなのだ。

 協同組合とは何か。それは、農業・農村のためだけにあるのではない。漁業協同組合があり、生活協同組合があり、各種事業者団体としての協同組合がたくさんあるという(例えば「日本スポーツ用品協同組合」「協同組合日本イラストレーション協会」等々)。さまざまな協同組合があり、世界中でその意義は確かめられ、成立し、人々はその恩恵を受けている。国際協同組合同盟(ICA)には、112カ国318の協同組合が加盟しており、その組合員総数は10億人だという(2022年)。

 日本人の多くも何らかの形で協同組合に関わりを持ち、なにがしかの恩恵にあずかっている。協同組合の意義を学ぶ機会がもっと多くあっていいのではないか。

徒然に(10) 3月に思う

 この冬は明らかに暖冬だったが、3月に入って激しい気温変化に戸惑っている。故郷は、今頃になって降雪が続いていて積雪がまだ1mもあるという。

 3月はさまざまな歴史的事象、事件、事故があった月。記憶を振り返り、さらに学び直しのためにいくつか記録を掘り起こしてみた。

▶ 3/1 :1919年、植民地だった朝鮮半島で日本の統治に抵抗する「三・一運動」(大日本帝国からの独立運動)が記録された日。1日~14日までに日本軍の鎮圧で朝鮮人死者数千人、負傷者1万数千人。

▶ 3/2 :1981年、中国残留日本人孤児47人が、肉親捜しのために初めて公式に来日した日。

▶ 3/8 :国際女性デー。さまざまな分野で男女格差が大きな国日本。女性は男性の75%という大きな賃金格差は世界ワースト2位だという。オジサンが支配する政治と経済の状況を早く脱しないといけない。

▶ 3/10:1945年、東京大空襲。死者12万人、負傷者15万人、罹災者300万人。愚かで無謀な戦争による市民犠牲者である。故林家三平夫人海老名香葉子さんは家族6人を失い「記憶を死ぬまで語り継ぐ」と。

▶ 3/11:2011年、東日本大震災。2万2,318名の死者・行方不明者(関連死含む)。福島第一原発事故で故郷を奪われた多数の人々。今も県内外に2万6000人が避難している。常に自分事として考えるべきこと。

▶ 3/16:1968年、ベトナム戦争下、米兵によるソンミ村民虐殺事件。犠牲者504人、ベトナム反戦運動のシンボルとなった。その翌年に高校進学した私は「ベ平連」と出会い、平和を考え始めるきっかけになった。

▶ 3/18:2014年、ロシアによるクリミア併合。現在のウクライナ侵略に至るプーチン帝国の初動だった。身の危険を感じて逃れた非ロシア系住民は、故郷を失って帰れない。10年経った。

▶ 3/28:1979年、米国スリーマイル島原発事故。史上初の原発メルトダウン事故。その後、米ロの科学界が連携協力関係にあれば、1986年のチェルノブイリ原発事故は起きなかったかもしれない。

▶3/31:1970年、赤軍派による日本初のハイジャック事件。9人の犯人グループが北朝鮮に向かうよう要求し、亡命した。

 ウクライナの人々からクリミアを奪ったロシアの蛮行を糾弾するのは当然だが、植民地支配した朝鮮半島の人々から歴史と文化、故郷を奪ったかつての日本を忘れてはならない。ベトナム戦争に向かった米軍兵士の多くは、沖縄の基地から飛び立った。今また沖縄が前線基地化されようとしている。軍事対抗は兵士だけでなく多数の民間人の犠牲を生む。新たな海老名香葉子さんを生まない決意。「ふるさと」を奪う戦争と原発は、どちらもあってはならない。

農とくらしの技(8) 自然エネルギー利用の「踏み込み温床」

 もうじき春分というこの季節、温暖地の農家は野菜の育苗を始める。近ごろは電熱温床が主流だが、有機農家などで伝統技術の「踏み込み温床」を作って使う例がある。農家だけでなく、家庭菜園者のなかにも自然エネルギー利用のこの技術に注目する人がいる。その技術の概要を紹介しよう。

 踏み込み温床は、原理としては堆肥の発酵熱のしくみを応用したもの。古代ローマをはじめ世界各地に似た技術があったと伝えられるが、日本では江戸時代初期に江戸近郊の農民によって考案されたとされている。

 その目的は、江戸庶民や武家の「初物嗜好」に応えるためだったようだ。早出し野菜が高値で売れたのだろう。1日も早く夏野菜が収穫できるよう、春に温床を作ってタネを蒔き、温床でそのまま育てて収穫したのだ。温かい苗床で揃った良苗を育て、できた成苗を本畑に移植するのが基本だが、苗の一部を温床に残してそのまま育てると移植した株より数日以上早く収穫できるのである。ナス、キュウリ、インゲンなどに使われた。

 子どものころ、私の生家でも踏み込み温床にキュウリの数株を残して育てていた。初物を早く食べたくて、毎日何度も見に行って唾をのみ込んだものだ。初物は仏壇に供えた後、子どもが食べるのを許されたように思う。

 苗床としての踏み込み温床はどのように作られ、使われたのだろう。その方法はさまざまだったが、概要は次のようなものである。

▶ 地上に高さ2~3尺(60~90cm)、幅4~5尺(120~150cm)の枠を作る。枠の長さは農家それぞれの生産規模によって2~3mとか、10m以上のものまであっただろう。温床枠の壁は、かつては稲わらを使っていた。木枠にわら束を縦にきつく立て並べて上辺を刈り込みバサミで切りそろえる。現代ではコンパネなどで板壁にする例が多いようだが、通気性に難がある。ドリルで穴を開ける工夫が有効だろう。古畳を使う人もいて、なかなかいいアイディアだと思う。

▶ 中に発酵熱を生じさせる有機物を入れる。基本材料は落ち葉や稲わらなど。枯れたススキ、ヨシなども使える。昔の萱(かや)屋根の葺き替えで下ろした古ガヤは好適材料だったと思う。これに発熱材料になる家畜糞、米ぬか、生草などを挟み、水を掛けながら踏み込むのだ。発熱材料の量と割合、かける水の加減、踏み込む強さなどが技術の勘所だ。家畜糞は生であること、かつては人糞尿も使われたと思う。現代では生家畜糞はなかなか手に入らないし、人糞尿はもちろん使えない。米ぬかや鶏糞が主体である。生草、緑の野菜くずも有効だ。落ち葉主体では体重の重い大人が強く踏み込んでもかまわないが、稲わら主体では体の重い大人が踏み込むと酸素不足で発熱に支障が出る。稲わらの踏み込み温床では子どもに踏ませていた。

▶ 踏み込み作業の翌日から発熱が始まり、床内の温度が40℃を越えると育苗を始められる。床内を45℃前後に保つと、上に置く播種箱(プランター)の地温を発芽適温の25℃くらいにできる。高温性のナスやキュウリなどを蒔けるのだ。

▶ 早春の早朝の気温は0℃以下に下がることがある。温床内の最低気温を15℃以上くらいに保つ必要があるから、温床の上にはフィルムを被せて保温しなければならない。ポリフィルムとその上に保温マットが必要だ。日中はこの被覆フィルムを外したり掛けたりして温度調節を行う。60年以前、ビニールフィルムの登場前は、江戸時代からずっと油紙障子を使っていた。早春の保温はその上に菰(こも)や蓆(むしろ)を乗せていた。私の幼少時はまだ江戸時代方式だったのだ。

▶ 育苗は、昔は発熱床の上に肥土を数センチの厚さで載せて、そこに直接タネを蒔いていた。現代では播種箱に肥土(育苗用土)を入れて蒔いたり、セルや連結ポットに蒔いたりする。箱やセルに蒔いた苗は、さらにポリポットに移植して成苗にするのが一般的である。

 この踏み込み温床の技術は、伝統的な農の技(わざ)としては最高位のものではないかと思う。この技術を廃れさせてならないと思っている。現代の農家でこの技術を体得しているのは多くは80代以上の人になってしまったが、ぜひ若い人々に継承してもらいたい。幸いなことに、有機農家や有機栽培に取り組む家庭菜園者、半農半Xの人たちで踏み込み温床に取り組む人が増えてきているように思う。ネット記事にも写真付きでたくさん紹介されるようになった。こうした農の文化を未来人に残すためにも、農そのものの衰退は許されない。

 

この国のかたち(14) 1954年

 私はつい先月、70歳になった。1954年の早や生まれである。同学年の多くは1953年生まれで、有名人では北の湖落合博満竹下景子松平健などがいる。ジャーナリストの金平茂紀もそうで、その姿勢に共感できる人である。1954年生まれでは松任谷由実。私が初めて買ったレコードが旧姓荒井由実だった。

 学年は違うが、元首相の安倍晋三日本共産党前委員長の志位和夫、米俳優のデンゼル・ワシントンなどが1954年生まれだという。近年は、テレビでよく目にする人々の老け具合に自分を投影させて、自らの進退を考えることもある。老害は避けなければ、などと思うのだ。

 1954年にあった事、歴史的事態が70年後の今を考えるヒントにもなる。映画「ゴジラ-1.0」が米アカデミー賞を受賞したと話題になったばかりだが、第1作が1954年11月に封切られている。同じ怪獣が70年も脚光を浴び続けていることを喜ぶべきか、悲しい状況なのか考え込んでしまう。なにせ、ゴジラアメリカの水爆実験の影響で生まれたとされているのだ。

 太平洋戦争終結(日本敗戦)から9年。3月1日にビキニ環礁死の灰を浴びたマグロ漁船第五福竜丸の23名。「水爆ブラボー」の死の灰を浴びたのは第五福竜丸だけではない。54年末までに856隻が放射能汚染されたマグロを水揚げしたという。ゴジラは、ビキニ事件を告発する映画だったのだ。

 自衛隊が発足したのが54年7月1日。その1か月前に国会で「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」を全会一致で可決している。先の大戦における日本軍の海外での蛮行記憶がまだ生々しかったのだ。その自衛隊ができたのはなぜか。そこのところが問題である。要はアメリカの世界戦略と、日本の保守政界の思惑が合致したから。自衛隊の名は今も変わらないが、実態は軍隊にほかならない。生まれは小さかったが、いまや軍事費世界第10位である。

 中国と北朝鮮を意識してだそうだが、「自衛隊」が敵基地攻撃能力となる長射程ミサイルを多数、沖縄の諸島に配備するようになった。アメリカから武器を爆買いし、外国と共同開発する戦闘機の輸出を閣議決定ひとつで強行するという。かつて軍事費をGDPの1%以内に収めるなどと言ってきたことを、政権党はあっさりと投げ捨て、2022年度以降は驚異の軍事予算拡大に走っている。戦争好きの政治家たちの要求はとどまるところを知らない。国民のくらしなど目に入らないようだ。

 自衛隊と同い年であることが、私の信条にけっこう大きく影響している。ゴジラ映画が次々と新作で蘇り続けることの意味もまた忘れてはならない。ちなみに、人同士も国同士もお互いは鏡。相手の顔つき、振舞いはこちらの態度に反応したものかもしれない。自らの姿勢で相手を変えることもできる。

徒然に(9) 「核」雑感

▶ 70年前の今日3月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁で米国が行った水爆実験によって、静岡県のマグロ漁船第五福竜丸被爆した。死の灰を浴びた漁船員の久保山愛吉さんが3人の愛娘を残して40歳の生涯を閉じたことは、3度目の核被爆者と呼ばれた。私が生まれたひと月後のことであり、年齢を重ねるたびにビキニの言葉が胸に突き刺さる。

  仏人デザイナーが女性の水着にビキニと名付けたのは、ビキニ核実験によるという。「なんとも無神経な話」(3/1「天声人語) だ。以前からこの名が気になっていたのだが、やはり関係していたのだ。知らないといけない事実である。

 米国がビキニ環礁で核実験を行ったのは、1946年から58年まで67回。1954年に第5福竜丸が被爆したのは、なんと「水爆ブラボー」。ふざけた名である。この間に被爆したのは第五福竜丸だけではない。多くの日本漁船が死の灰を浴びたとされるが、正確な調査はされていない。何より大きな被害を被ったのはマーシャル諸島の人々だ。「病気や障害を負っただけじゃない。土地を、文化を失った」(3/1 朝日「ひと」欄) 。

 毎年3月1日前後には反核・平和の集会が開かれている。3.1ビキニデーは反核平和運動の原点とされている。この運動が核兵器禁止条約につながったのだが、日本はまだ署名していない。核兵器被爆国として禁止条約に参加しないことは道理にもとる。政府の姿勢が問われる。

▶ 小説「チェルノブイリ」(1989、フレデリック・ポール/山本楡美子訳、講談社文庫) を、20数年ぶりに再読している。本屋の棚で見つけたのは、1986年4月のチェルノブイリ原発事故から数年後のことだったように思う。原発事故の実像を知りたくて読んだのだった。

講談社文庫「チェルノブイリ」は、今も市販されている。

 これは小説であり人物名等は創作であるが、事故の原因や経過、事故後の消火活動や周辺住民の避難の顛末、放射能汚染の拡散を防ごうとした関係者の動きなどは、ほぼ事実どおりに描かれているという。当時のソ連の国柄や風物が、米国人作家らしい多少の偏見も相まって描写され、ソ連政治の背景のもと起こるべくして起こった原発事故だったと分かる。

 チェルノブイリウクライナの首都キエフ (キーウ) にごく近い。事故によって巻き上げられた放射性物質は、その後全ヨーロッパに飛散したが、主に被爆したのはウクライナとその北に位置するベラルーシの住民だった。「ホットゾーン」と呼ばれる高濃度汚染地域である。

 手元に「チェルノブイリ・ハート」(2011、マリアン・デレオ、合同出版) という写真誌がある。アカデミー賞を受賞した短編ドキュメンタリーのガイド本である。これによると、死者は4,000人から985,000人と推計値に大きな幅がある。実態は隠された部分もあり、未だ正確に調査されていないのだ。死者だけではない。その後に生まれた子供も含めて、ガンをはじめ放射能によるさまざまな病気、あるいは身体障害に「今も」苦しむ数え切れない多くの人々がいる。

 3.1ビキニデーは、広島8.6、長崎8.9、チェルノブイリ4.26、福島3.11とともに、核のもたらす脅威を常に確認し合う日でありたい。